第九十二話 厨子を、狙う者
荒法師山・羅漢寺跡は、以前訪れた時と変わらず、緑に沈んだ静けさに包まれていた。だが、山門をくぐった瞬間、密迹の足が、ぴたりと止まった。
「――この匂いは」密迹の声が、低く沈んだ。
「血の匂いじゃ」稲荷が、鼻をひくつかせた。「それも、由緒の血の」
一行が本堂の跡に駆け込むと、そこには、薙刀を杖に、片膝をついた覚山の姿があった。
「覚山殿……!」密迹が、駆け寄った。
「……無事、か」覚山は、口の端から血を滲ませながら、それでも不敵に笑った。「案ずるな。まだ、退いてはおらぬ」
「何があった」
「輩よ」覚山は、崩れた本堂の奥、厨子のある方角を睨んだ。「この百年、幾度となく退けてきた類の者どもだ。……だが、今回のは、これまでと桁が違う」
その言葉が終わるより早く、瓦礫の向こうから、ゆっくりと、人影が現れた。
黒い外套に身を包み、顔には、継ぎ接ぎだらけの面を着けている。歩みを進めるたび、体のあちこちから、異なる色の由緒の光が、ちらちらと漏れ出していた。
「――また、増えたな。守り手が」その声は、幾人分もの声が重なったような、奇妙な響きを持っていた。「だが、何人集まろうと、変わらぬ。……この山に眠る欠片は、いただいていく」
「お前……名は」紡樹が問うと、面の人物は、僅かに首を傾げた。
「名など、とうに捨てた。……幾つもの由緒を我が身に縫い留めるうち、己の名を、しまい忘れてしもうたわ」
その声に、ほんの一瞬――苦い何かが滲んだ気がした。だが、それもすぐに、継ぎ接ぎの嗤いに塗り潰された。
――《うわ、なんかヤバい奴出てきた……》
――《継ぎ接ぎの由緒って、つまり盗んだやつら?》
――《これ、無銘って呼べばいいのか》
「無銘、とでも呼ぶがいい」その人物――無銘は、外套の内側から、幾つもの由緒の残光を纏った腕を覗かせた。「――さあ、始めるとしよう。厨子は、我がもらう」
無銘が地を蹴った瞬間、その姿が、幾重にも分裂したように見えた。将門の剛力、土蜘蛛の分身、複数の由緒の性質が、ひとつの体の中で、めまぐるしく入れ替わっていく。
「合わせ物の力か」阿形が、拳を構えた。「盗んだ由緒を、継ぎ接ぎにしとるであります!」
「本物には、遠く及ばぬがな」密迹が、拳を打ち鳴らした。「それでも、厄介な相手には違いない」
覚山が、無銘の外套の奥、ひときわ禍々しい気配を放つ一点を、鋭く睨んだ。
「……あの気配」覚山の声に、緊張が滲んだ。「他の由緒とは、明らかに格が違う。無銘め、まだ何か、出し惜しみしておるな」
「出し惜しみとは、人聞きが悪い」無銘は、外套の内側を、庇うように腕で押さえた。「これは、とっておきだ。……お前たちが本当に厄介になった時のための、な」
覚山が、震える足で立ち上がった。
「厨子は、渡さぬ。……我が家系が、百年守り続けてきたものだ」
「密迹殿」覚山は、密迹の方を見た。「今日という日に、お前が居合わせたのも、何かの巡り合わせかもしれぬ。……力を、貸してくれるか」
密迹は、懐の欠片に、そっと手を当てた。
「無論だ。……那羅延の眠りを、汚させはせぬ」
無銘の全身から、継ぎ接ぎの由緒の光が、一斉に噴き上がった。
「――さあ、どちらが先に、力尽きるか。試させてもらおう」
風が、荒法師山の緑を、不穏に揺らしていた。長く隠されてきた最期の欠片を巡る、新たな戦いの幕が、今、切って落とされた。




