第九十話 これからの、当たり前
雪代神社の朝は、澄んだ光に満ちていた。境内の雪は、いつの間にか、すっかり溶けていた。
社務所の縁側で、氷室冴と雪乃、そして宵が、三人並んで朝餉を囲んでいた。壮年の姿になった氷室冴が、湯呑みを傾けながら、少し照れくさそうに笑う。
「……こうして、家族で飯を食うというのは、随分と、久しぶりだ」
「わたしにとっては、初めてです」宵が、静かに言った。「物心つく前に、常宮に預けられたので」
「すまなかった」氷室冴は、目を伏せた。「あの頃のわしには、他に、お前を守る方法が思いつかなんだ」
「もう、謝らなくていいです」宵は、小さく笑った。「今、こうしていられるだけで、十分ですから」
雪乃が、宵の茶碗に、そっとご飯をよそった。
「これから、少しずつでいいから。……三人で、当たり前のことを、積み重ねていきましょう」
縁側の外では、紡樹と結樹が、旅支度を整えていた。
「そろそろ、行くのか」氷室冴が、縁側から声をかけた。
「はい」紡樹が頷いた。「那羅延さんの本体……まだどこかにあるかもしれない欠片を、ちゃんと探しに行くって、密迹さんと約束したので」
「無理は、するなよ」氷室冴は、静かに言った。「わしのように、力ずくで何とかしようとするな。……お前たちなら、分かっておるとは思うが」
「はい」紡樹と結樹が、同時に頷いた。
「大宮司様との約束も、忘れずに」宵が付け加えた。「お父さんの記録、常宮でちゃんと洗い直してもらうこと」
「ああ」氷室冴は、静かに微笑んだ。「今度は、堂々と、常宮の門をくぐれる気がする」
――《氷室冴さん一家、幸せそうで良かった……》
――《次は那羅延編か、楽しみ》
――《みんなちゃんと日常に戻ってる感じがいい》
紡樹は、荷物を背負い直し、雪代神社の鳥居を振り返った。
「――また、遊びに来ます」
「いつでも、お待ちしています」雪乃が、深く頭を下げた。
山を下りる道すがら、結樹が、ぽつりと呟いた。
「なんか、いいものを見た気がする」
「うん」紡樹も、静かに頷いた。「僕らも、いつか、ああいう当たり前を、手に入れられるといいね」
ふたりの足音が、山道に、静かに響いていった。旅は、まだ、続いていく。




