第八十九話 紡ぐ手と、結ぶ手と
「時待ちの宮」の扁額の下、社殿の奥から、雪乃が古い巻物を運んできた。
「代々の宮司が守ってきた、この社の由緒書きです」雪乃は、巻物を丁寧に広げた。「読み解けたのは、ほんの一部だけですが……」
紡樹は、色褪せた文字を目で追った。
「『境界、時に狂う時――紡ぎし者と、結びし者、対となりて手を重ねれば、狂いは正され、元の理に還る』」
結樹が、紡樹の隣で、同じ文言を覗き込んだ。
「……紡ぎし者と、結びし者」結樹は、静かに繰り返した。「これ、僕らのことじゃないか」
「予言の"境界"は、神仏の境界だけじゃない。時そのものの境界でもある……前に、君が言ってたことだよね」紡樹が言った。
氷室冴が、杖に手を添えたまま、ふたりを見つめた。
「まさか、わしの体を、お前たちの力で……?」
「やってみないと、分かりません」紡樹は、正直に答えた。「でも、これが、そのための言葉なんだと思います」
結樹が、紡樹の隣に立った。
「今度は、戦うためじゃない」結樹は、小さく笑った。「――ちょうどいい機会だ。僕らの力が、誰かを傷つけるためだけじゃないって、証明できる」
紡樹は、朱印帳を静かに構えた。結樹も、拳ではなく、開いた両手を、氷室冴の方へと差し伸べた。
「――紡げ、歴史を」
「――結べ、時の狂いを」
金と黒、ふたつの光が、静かに重なり合っていく。二上山でぶつかり合った時とは違う、穏やかな輝きだった。ふたつの光は、争うことなく、ひとつの紋様を描き出し、氷室冴の体を、優しく包み込んでいった。
――《なんか、あったかい光だ……》
――《紡樹くんと結樹くん、息ぴったりじゃん》
――《これが本当の"対の理"なのかも》
氷室冴の皺だらけの手が、光の中で、微かに震えた。曲がっていた背筋が、ゆっくりと伸びていく。真っ白だった髪に、幾筋か、黒が戻っていった。
光が収まった時、そこに立っていたのは、老爺ではなかった。まだ、若さそのものではない。だが、汐乃宮で出会った時よりも、遥かに若々しい、壮年の男の姿だった。
「……これは」氷室冴は、自分の両手を、何度も見つめた。「三年分の、時に、戻ったということか」
「全部が全部、なかったことにはならない、ってことなんだと思います」紡樹が、静かに言った。「でも……狂ってた分は、ちゃんと、正されたんだと思う」
雪乃が、両手で口元を覆ったまま、言葉もなく、その姿を見つめていた。
「……冴、さん」
氷室冴は、雪乃の方を振り返り、そして、宵の方を見た。
「わしは、ずっと、ひとりで境界を結び直そうとしていた」氷室冴は、静かに、噛みしめるように言った。「その結果が、これだ。……だが、今、分かった。結び直すというのは、力ずくで為すことではない。誰かと、手を取り合って初めて、正しく為せることなのだな」
紡樹と結樹は、顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
雪の舞う境内に、若返った父と、その妻と、娘――ようやく取り戻された、ひとつの家族の輪郭が、静かに浮かび上がっていた。




