第八話 白の鳥居、揺らぐ心
「バカな……」宵の声が、微かに震えていた。「わたしの祓いが、効かない……?」
「効かないんじゃない」紡樹は肩で息をしながら言った。「その理屈自体が、そもそも間違ってるって、僕が本気で理解して、否定したんだ」
葵が目を細め、しばらく黙り込んだ。結界を解いた彼の表情には、隠しきれない動揺が浮かんでいた。
「……本地垂迹も、両部神道も、我々とて教義として知らぬわけではない。だが、それを力として実践できる者など、聞いたことがない」
「葵くん」宵が縋るように呼びかける。「これは、どういうこと……?」
「分からん」葵は短く答えた。「だが、今日のところは退く。……常宮への報告が先だ。中途半端な確証で動けば、また“あの時”のような騒ぎになりかねん」
宵は悔しげに唇を噛んだが、それ以上は言い返さなかった。彼女は最後に、もう一度だけ紡樹を見た。その眼差しには、憎しみよりも、戸惑いの方が色濃く浮かんでいるように見えた。
退却する道すがら、宵の脳裏に、幼い日の記憶が過ぎった。清らかであれ、正しくあれ、と繰り返し教えられた、常宮の奥の間。まだ物心つく前に、宵はそこに預けられたのだという。誰に、なぜ――その記憶だけは、いつも靄がかかったように思い出せない。
ふたりは踵を返し、透明な鳥居の方角へと歩き出す。
「豊田紡樹」葵が振り返らずに言った。「次は、これで終わらん。……覚悟だけはしておけ」
「葵くん」透明な鳥居をくぐる直前、宵が小さく声をかけた。「常宮には、なんて報告するの?」
「事実をありのまま、だ。……両属性を併せ持つ者が、由緒の理解のみによって、我が方の技を無効化した。それ以上でも、それ以下でもない」
「それだけ聞いたら、上の方々は、どう動くと思う?」
葵は答えなかった。答えられなかった、というのが、より正確だったかもしれない。
ふたりの姿が、光とともに掻き消えた。境内には、荒い息を吐く紡樹と、駆け寄る仲間たちだけが残された。
「紡樹さま、大丈夫ですか……!」
「なんとか、ね……」
紡樹はその場に座り込んだ。手の中の朱印帳には、朱と墨、ふたつの印がしっかりと刻まれたままだった。祖父が駆け寄り、震える手で紡樹の肩を掴んだ。
「よくやった……よくやったぞ、紡樹。まさか本当に、その知識を力に変えるとはな」
「じいちゃんが教えてくれたおかげだよ」紡樹は苦笑いした。「……でも、次は、これじゃ済まないかもしれない」
阿形が紡樹の肩を叩いた。「まあ、その時はその時であります。俺たちもついてます」
「僕らも、無傷というわけではなかったですけどね」吽形がぼやいた。
「それでも、紡樹さまを守り切りました」阿形が誇らしげに胸を張る。「まあ、最後に決めたのは紡樹さま自身であります」
「みんながいてくれたから、踏ん張れたんだよ。ありがとう」
紡樹が素直に礼を言うと、四人はそれぞれ照れくさそうに視線を逸らした。
「ふたりとも、お疲れさまなのじゃ」稲荷が微笑み、懐から取り出したもう一つのファミチキを、紡樹にそっと差し出した。「糖分と塩分は、力の回復に必要なのじゃ」
「……こんな時までそれかよ」
紡樹は思わず笑い、差し出されたそれを受け取った。緊張が解けたせいか、笑い声には、まだ少し震えが残っていた。
――――――――
同じ頃、由緒管理機構の本部では、調査官・鏑木彰が上司からのファイルを受け取っていた。
「隠れ古宮、豊田紡樹――両属性同時反応。前例のない事案だ。刺激せず、まず実態把握を優先しろ」
「了解しました。……ちなみに、“あの時”の記録は?」
上司は一瞬、言葉に詰まった。「その名称で呼ぶな。あれは、機構の設立以前――いや、今は話す時ではない。とにかく、慎重に頼む」
鏑木は小さく頷き、支給された公用車の鍵を受け取ると、すぐさま現地へと向かった。




