第八十七話 埋もれた記録、消えない想い
常宮の奥、長らく人の出入りがなかったという記録庫は、埃と紙の匂いに満ちていた。宵が先頭に立ち、灯りを片手に、棚の奥へと進んでいく。
「大宮司様から、正式に許可をいただきました」宵は、積み重なった木箱を見上げながら言った。「三年前……ううん、父にとっては、もっと長い年月の記録が、ここに眠っているはずです」
氷室冴は、杖を突きながら、ゆっくりと棚の間を歩いた。
「懐かしいような、恐ろしいような場所だな」氷室冴は、自嘲するように笑った。「わしがここで聴聞を受けていた頃は、まさかこんな形で戻ってくるとは、思うておらなんだ」
紡樹は、木箱のひとつを開け、古い書類の束をめくり始めた。
「これ……氷室冴さんの、当時の調査記録ですか?」
「ああ。……境界を結び直す研究の、走り書きだ」氷室冴は、紡樹の手元を覗き込んだ。「今見ると、若さゆえの浅慮ばかりだな。理屈だけで、境界を力ずくにねじ伏せようとしていた」
結樹が、別の棚から、一枚の古びた封筒を見つけた。
「……これ、宛名が」結樹の声が、僅かに強張った。「氷室冴様、と書いてある。差出人は――」
宵が、はっとして駆け寄った。封筒には、丁寧な女性の筆跡で「氷室冴様へ」と記されていた。差出人の名は、どこにもない。
氷室冴が、震える手で、封筒を受け取った。中には、一枚の便箋。
「――『あなたが消えてから、もう半年になります。宵は、常宮で元気に育っていると聞きました。……あなたがどこにいようと、わたしは、待ち続けます。境界の向こうであろうと、時の狭間であろうと。……見つけたら、必ず、迎えに行きます』」
氷室冴の声が、途中から掠れていった。
「……母、からの手紙だったんですね」宵の手が、震えた。「わたし、母の字を、初めて見ました」
「……知らなんだ。妻が、常宮にまで、わしを探しに来ていたとは」
「差出の消印は……」結樹が、封筒の端を確認した。「北の方角、深山にある、小さな社の名前になってます。『雪代神社』」
――《氷室冴さんの奥さん、まだ探し続けてたのか……》
――《宵ちゃんのお母さん、見つかるといいな》
――《これ、絶対次はそこに行く展開だ》
紡樹は、もう一枚、別の資料を手に取った。氷室冴自身の手による、古い研究ノートだった。
「氷室冴さん、これ……」紡樹は、ページの隅を指さした。「『時のずれが生じた場所は、汐乃宮だけではない。同じ性質を持つ土地が、少なくとももうひとつ』って、書いてあります」
氷室冴の目が、大きく見開かれた。
「……まさか、当時のわしが、もうそこまで辿り着いていたとは」氷室冴は、震える指でページをなぞった。「この重さに、あの頃は、気づいてすらいなかった」
「たぶん、その場所に行けば」紡樹は、静かに続けた。「あなたの時間のことも、何か、分かるかもしれません」
宵は、母の手紙を、そっと胸に抱いた。
「お父さん」宵が、静かに氷室冴を見上げた。「一緒に、会いに行きましょう。……母に」
氷室冴は、しばらく言葉を失っていたが、やがて、深く頷いた。
「ああ。……今度こそ、力ずくではなく」
窓の外では、常宮の白い鳥居が、夕暮れの光に、静かに照らされていた。長い年月を経て、ようやく手繰り寄せられた糸が、次の旅先を指し示していた。




