第八十二話 遅れて届く、はずだった
結樹は、崩れ落ちるように、紡樹の傍らに膝をついた。
「紡樹……紡樹、起きろ」
震える手で、紡樹の肩を揺する。反応はない。ただ、消えかけた光だけが、かすかに明滅していた。
その時、結樹の胸に刻まれた対紋が、これまで感じたことのない熱を放った。
「――ッ、な……!」
いつもなら、対紋の共鳴は、事後にしか伝わらない。気づいた時にはもう遅い――そういう性質のものだったはずだ。だが今、結樹の中に流れ込んできたのは、紡樹の"今この瞬間"の感覚そのものだった。冷えていく指先。薄れていく音。それでも消えない、誰かへの想い。
「……こんなの、初めてだ」
双堂の主が、静かに歩み寄った。
「対の絆が、極限まで研ぎ澄まされた証よ。……もはや、事後に伝わるだけの、生易しいものではなくなったということだろう」
結樹の脳裏に、堰を切ったように記憶が溢れた。境内で初めて言葉を交わした日。夜の一戦、拳を交わし合った夜。誰にも話せなかった弱さを、紡樹にだけは打ち明けられた夜――「君との日々が、嘘だったわけじゃない」。自分でそう言っておきながら、僕は今、何をした。
「……僕は」結樹の声が、震えた。「消された者たちのために、って言い訳をして……結局、目の前の、たったひとりを、消そうとしてたのか」
「紡樹くん……!」少し離れた場所で、宵が光の壁に手をついて叫んでいた。「お願い、まだ間に合う、まだ……!」
紡樹の意識は、遠く、薄い水の底のような場所を漂っていた。誰かの声が、幾重にも重なって聞こえる。祖父の、少し不器用な励まし。稲荷、吽形、密迹、阿形――それぞれの由緒と共に交わした言葉。そして、結樹の声。「君との日々が、嘘だったわけじゃない」
――嘘じゃ、なかったよ。
紡樹は、声にならない声で、そう答えた気がした。
――《まだ、心停止判定は出てない……!》
――《結樹くん、泣いてる……》
――《配信、切らないで。頼むから》
結樹は、両手を紡樹の胸に重ねた。対紋の紋様が、金と黒、ふたつの色を帯びて輝き出す。
「――結べ。今度は、無念のためじゃない」結樹の声が、震えながらも、はっきりと響いた。「君を、ここに、繋ぎ止めるために!」
黒い靄が、優しく紡樹の体を包み込んだ。それは、これまでの攻撃的な靄とは、まるで違う質感をしていた。傷を覆い、痛みを吸い取るように、静かに寄り添っていく。
紡樹の胸の対紋が、応えるように、金の光を灯した。ふたつの色が、争うことなく、静かに溶け合っていく。
――《光った……!》
――《紡樹くん、指、動いた!》
――《生きてる、生きてるぞ……!》
紡樹の瞼が、ゆっくりと震えた。
「……結樹?」
掠れた声だったが、確かに、紡樹の声だった。結樹は、堪えきれず、その場に泣き崩れた。
「……悪い。……本当に、悪かった」
双堂の主は、その光景を、静かに見守っていた。
「これが、真の対の力よ。……忌み子とは、ひとりで完結せぬもの。ようやく、その意味が、形になったな」
風が、二上山の平地を、静かに吹き抜けていった。だが、まだ、すべてが終わったわけではなかった。ふたりの間には、まだ、語り尽くされていない言葉が残されている。




