第八十一話 退かぬ理由、譲れぬ理由
結樹の拳が、闇に紛れて消えたかと思うと、次の瞬間、紡樹の目の前に迫っていた。
「――ッ!」
紡樹は朱印帳を掲げ、金の光で受け止める。だが、これまでの模擬戦とは、明らかに重みが違った。骨まで軋むような衝撃に、紡樹の膝が沈んだ。
「本気で来る、って言ったよね」結樹が、静かに言った。「手加減はしない。……それが、僕なりの、誠実さのつもりだ」
紡樹は歯を食いしばり、体勢を立て直した。
「うん。……僕も、それに応える」
だが、応えると言った紡樹の拳は、どこか鈍かった。攻め込む瞬間、決まって一瞬、力が緩む。結樹はそれを、見逃さなかった。
「――甘いよ、紡樹」
黒い靄が、紡樹の足元から一気に噴き上がった。逃げる間もなく、全身を搦め捕られる。
「くっ……!」
「君は、僕を本気で傷つけたくないんだろう」結樹の声に、微かな苦さが滲んだ。「その優しさは、嫌いじゃない。……でも、この戦いでは、命取りになる」
紡樹は、両部の理で靄を引き裂こうとしたが、力の出し方に、迷いがあった。結樹の拳が、防御の隙間を正確に突く。
――《紡樹くん、押されてる……!》
――《やばい、これガチのやつだ》
――《結樹くん、今までと目つき違う……》
一撃、また一撃。紡樹は防戦一方になっていく。
「教えてくれ、紡樹」結樹が、静かに問いかけた。「消された者たちの声を、僕が全部背負うことの、何がいけない?」
「いけなくない」紡樹は、震える声で答えた。「でも……ひとりで、全部背負う必要はないんだ」
「綺麗事だ」
「なら――僕が、その必要ないってことを、証明する!」紡樹は前に踏み込み、朱印帳の力を拳に集中させた。「――紡げ、歴史を。この一撃に!」
金の光が、結樹の黒い靄と激突した。一瞬、せめぎ合う。だが、ふたりの息が合わない今、あの日生まれた「光と影、対の理」は、姿を見せなかった。
「――対の理は、心が通じてこそ、なんだよ」結樹が、拳を突き出しながら言った。「今の僕らじゃ、まだ、それは呼べない」
金の光が、黒い靄に押し切られ、弾け飛ぶ。紡樹は大きく後方へ吹き飛ばされた。
祖父から受け継いだ由緒、旅の中で出会った四神使から学んだ全て、両部の理の全てを注ぎ込んでも、結樹の拳は止まらなかった。
結樹の周囲の黒い靄が、これまでにない密度で渦を巻き始めた。その中に、束の間、幾つもの影が滲んで見えた気がした。炎を纏う王の影、無数に重なる声、大太刀を担いだ武人、輪郭の定まらぬ者――結樹がこれまで巡り、覚えてきた、全ての悲劇の残響だった。
「――結べ、すべての無念を。これが、僕の全部だ!!」
黒い奔流が、紡樹めがけて放たれた。紡樹は両部の理を全開にして受け止めようとしたが、あまりの密度に、金の光が軋み、罅割れていく。
「うあ……ッ!」
光の盾が砕け散った瞬間、結樹の拳が、紡樹の胸を正面から捉えた。
鈍い音。紡樹の体が、大きく吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
「紡樹――!!」
宵の叫びが、光の壁の外から響いた。だが、誰も、その壁を越えることはできなかった。
――《え、ちょっと待って……》
――《紡樹くん、動いてない……》
――《配信、止めないで……お願いだから》
結樹は、荒い息をつきながら、倒れた紡樹に近づいた。その目に、初めて、迷いのようなものが浮かんだ。
「……紡樹?」
答えはなかった。紡樹の胸から、金と墨、両方の光が、次第に薄れていく。対紋の紋様さえも、力なく明滅していた。
結樹は、その場に立ち尽くした。伸ばしかけた手が、震えている。
「……嘘、だろう」
風の音だけが、二上山の平地に、静かに響いていた。




