第七十九話 幻と、名もなき者
吽形と土蜘蛛、三つ目の決着を見届け、最後に残ったのは稲荷と、輪郭の定まらぬままの人柱の霊だった。
「……さて、と」稲荷が、いつもの飄々(ひょうひょう)とした調子で一歩前へ出た。「幻術対決、望むところなのじゃ」
人柱の霊は、答えなかった。ただ、静かに揺らめきながら、稲荷を見つめていた。
「……お主の、姿」掠れた声が、ようやく漏れた。「ひとつじゃ、ない。……幾つも、纏っておる」
「よう気づいたのじゃ」稲荷は、片目をつむってみせた。「妾は狐の姿もあれば、人の姿もある。稲荷神とも、荼枳尼天とも呼ばれてきた。……妾の由緒は、最初からひとつじゃなかったのじゃ」
「……羨ましい」人柱の霊が、ぽつりと呟いた。「……ここに埋められた者には、姿も、名も……何ひとつ、残らなんだ」
その一言に、稲荷の笑みが、わずかに強張った。
「――白狐の幻惑」
稲荷が指を弾くと、無数の白狐が周囲に現れた。ひとつひとつが本物と寸分違わぬ姿で、四方八方から人柱の霊を取り囲む。分身たちが一斉に飛びかかった。
だが、人柱の霊は動じなかった。地面から、幾筋もの黒い根と土くれが立ち上がり、分身ごと、あたり一帯を静かに覆い尽くしていく。
「……惑わされる、名など」根の隙間から、声が漏れた。「ここには、ない」
分身たちが、次々と土くれに飲み込まれ、幻影ごと崩れていく。稲荷は数を倍に増やし、あらゆる角度から攻め立てたが、結果は同じだった。根の壁は静かに、しかし着実に、幻影の数を飲み込んでいく。
――《稲荷ちゃんの幻術、効いてない……!?》
――《相手、名前ないから騙しようがないのか》
――《これ、重い戦いだ……》
「くっ……妾の幻、通じぬのか」稲荷の額に、初めて焦りの色が浮かんだ。
分身をすべて解き、稲荷は肩で息をしながら、その場に立ち尽くした。
「……分かったのじゃ」稲荷は、静かに呟いた。「幻をいくら重ねても、お主には届かぬ。……なら」
脳裏に浮かんだのは、玉藻の声だった。――「存分に、暴れてくるがよい。今度は、正しい理由でな」
稲荷は、胸に手を当てた。
「妾の由緒は、優しいものばかりじゃない。……美女に化けて祟りを撒き散らし、討たれてなお、殺生石として世を呪い続けた者の名も、妾は継いでおる。……隠れて、なかったことにしてきた、もうひとつの妾じゃ」
「……」
「幻じゃない。作り物でもない。……これが、正真正銘、妾の全部なのじゃ」
稲荷の輪郭が、白い光を帯びて膨れ上がった。狩衣が朱と白に染まり、背から、九つの尾がゆっくりと広がっていく。周囲の空気が、びりびりと震えるように張り詰めた。
「――九尾、参るのじゃ」
放たれた光は、もはや幻影ではなかった。九つの尾のひとつひとつが、本物の力を宿した一撃となって、人柱の霊を包む根の壁へと叩き込まれる。
――《うわ、稲荷ちゃんの雰囲気変わった……》
――《これ、シャレにならない力出してない?》
――《なんか、様子がおかしくない……?》
根の壁が、次々と焼き払われていく。だが、力を放つたびに、稲荷の肌に、石目の亀裂とは違う、光の宿らない罅が浮かんでは、小さく崩れ落ちていった。抑え込んできた由緒の重さが、そのまま彼女自身を蝕んでいるようだった。
「稲荷……!」遠くから、紡樹が叫んだ。その声にも、稲荷は止まらなかった。
「……やめよ」人柱の霊の声が、初めて、はっきりとした感情を帯びた。「そこまでする、理由が」
「理由なら、あるのじゃ」稲荷は、崩れかけた爪先で、なおも前へ踏み出した。「お主が、ひとりで、誰にも見られず、ずっとそこにおったように……妾も、ひとりで、この由緒を隠し続けてきた。……もう、隠さぬ。ボロボロになってでも、お主に、噓のない妾を見せたいのじゃ」
最後の尾の一振りが、根の壁を貫いた。同時に、稲荷の体から、九尾の光がふっと消え、狩衣姿の彼女が、崩れるようにその場に膝をついた。石の肌のあちこちに、罅が幾筋も走っている。
――《なんか、泣ける展開になってきた……》
――《稲荷ちゃん、ボロボロなのに笑ってる……》
――《これが一番重いって言われてたやつか……》
人柱の霊の輪郭が、大きく揺れた。根の壁が、静かに崩れて消えていく。
「……何ゆえ」人柱の霊が、震える声で呟いた。「誰も、見ておらぬ由緒のために……そこまで、傷つく」
「見ておらぬから、こそ、なのじゃ」稲荷は、地に手をついたまま、微笑んだ。「誰も見ていない場所で、何を選ぶか。……それが、由緒の本当の形だと、妾は思うのじゃ」
人柱の霊が、ゆっくりと、稲荷の傍らに寄り添うように近づいた。輪郭のない手が、そっと稲荷の肩に触れる。
「……ここに、埋められていた者は」その声が、初めて、震えを帯びずに響いた。「誰も見ておらぬところで、村を、守った。……お主と、同じであった」
「なら」稲荷は、痛みをこらえながら、それでも笑った。「妾たちは、似た者同士、なのじゃな」
「……負けを、認めよう」人柱の霊が、静かに言った。「これ以上、争う理由は、もう、ない」
「勝ったところで、この様なのじゃ」稲荷は苦笑した。「でも……ありがとう、なのじゃ」
人柱の霊の気配が、ふわりと和らいだ。
「……ファミチキ、というものを」その声に、初めて、微かな笑みのようなものが混じった。「……お主から、感じる」
稲荷が、傷だらけの顔で、思わず噴き出した。
「よう分かったのじゃ! 治ったら、今度、供えてやるのじゃ」
風が、二上山の平地を吹き抜けていった。四つ目の決着が、静かに刻まれた。四組の対決は、今、すべて終わりを迎えた。少し離れた場所――紡樹と結樹だけが、まだ、互いに向き合う間合いを残していた。




