第五十九話 名もなき者へ
翌朝、皆がまだ寝静まっている間に、結樹はひとり鳥居渡りを使い、冥の別宮へと戻っていた。
黒漆の鳥居の奥、薄暗い社殿の隅に、その気配はあった。輪郭の定まらない、影のような姿。長年、そこに留まり続けている、名もなき者。
「――久しぶり」結樹が声をかけると、影がゆっくりと揺らめいた。
「……ここに、来た者」
「僕だよ。分かるだろう」
「……語り部の、匂いがする者」
結樹は、静かに影の前に膝をついた。
「今日は、ひとつ、提案があって来たんだ」
「……提案」
「君の悲劇を、もっと強い力に変えられるかもしれない。豊守神社の礎に埋められた、名もなき誰か――その記録を、僕は見つけた」
影が、微かに震えた。
「……名など、要らぬ。ここに埋められた者に、名などいらぬ」
「名を与えようってわけじゃない」結樹は、静かに首を振った。「ただ、覚えている、というその一点を、もっと確かな力に変えたいだけだ。……君が望むなら、だけどね」
長い沈黙があった。やがて、影は掠れた声で答えた。
「……力を得て、何を、する」
「消された者たちの無念を、この手で晴らす。……たとえ、誰かと対立することになっても」
影は、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと、結樹の方へと近づいてきた。
「……試してみよ。それで、何かが変わるというなら」
結樹は、胸の対紋にそっと手を当てた。金と黒の光が、指先を伝って、影へと注ぎ込まれていく。
「――紡げ。悲劇の理を以て、その存在に、確かな形を」
影が、大きく震えた。輪郭のなかった姿に、少しずつ、人のかたちが浮かび上がっていく。土に汚れた着物、痩せた体、そして、どこか安らかな表情。
「……これは……」
「見えるか? 君自身の姿が」
影――いや、もはや影とは呼べないその者は、自分の両手を見つめ、震える声で呟いた。
「……久しく、忘れておった。己の、形を」
結樹は、額に滲んだ汗を拭いながら、満足げに笑った。
「成功だ。……これなら、いける」
社殿の奥、闇の中で、新たな力が静かに息づき始めていた。紡樹たちの誰も、まだそのことに気づいていなかった。




