第五話 白の鳥居、舞い降りる
まだ夏の名残が残る朝だった。蝉の声に混じって、どこか涼しい風が境内を吹き抜けていく。朝日を浴びて、鳥居がきらきらと光っていた。
木製のはずのそれは、昨夜のうちに、まるで磨き上げた水晶のような透明感を帯びていた。触れても冷たいだけで、木の感触は残っている。だが見た目だけは、確かに変わってしまっていた。
「じいちゃん、これ……」
「うむ。由緒管理機構への正式な登録名――お前が目覚めたことで浮かび上がった、この地の“本当の名”は、『隠れ古宮』というそうじゃ。長年、『豊守神社』という表向きの名の下に隠されておった、真の由緒よ。鳥居が透けて見えるのは、その象徴じゃろうな。嘘偽りのない、無の境地……とでも言うのか」
祖父は端末の画面を紡樹に見せた。夜のうちに由緒管理機構から届いていた通知には、無機質な文字でこう記されていた。
『登録名:隠れ古宮/代表適性者:豊田紡樹/属性判定:継続保留(両属性反応)/注意:現地調査班を近日中に派遣予定』
「近日中、か。あんまり時間はなさそうだね」
紡樹がそう呟いたところで、境内の隅から騒がしい声が聞こえてきた。
「吽形、それは俺のターンです!」
「阿形が下手すぎるので、僕が代わりにやっているのです」
昨夜、狛犬から人の姿を得たばかりの双子――阿形と吽形が、縁側で携帯ゲーム機を取り合っていた。見た目は十代半ばの少年ふたり。片方は常に口を大きく開けて笑い、もう片方は口を固く結んで無表情という、狛犬らしい対称性だけは健在だ。
「そこ、朝から騒がしいですよ」
呆れた声で割って入ったのは、狐火の少女――稲荷だった。手には、コンビニの袋。
「稲荷、それ何?」
「ファミチキです。夜通し起きていたら小腹が空いたので、近所のコンビニまで飛んでいきました。紡樹さまも食べますか?」
「神使が真夜中にコンビニ寄るんだ……」
紡樹は思わず笑った。試しに、朱印帳を開いて、両方の印にそっと指を当ててみる。昨夜のような眩い光は起きない。だが、指先にじんわりと、朱と墨、双方の温もりが伝わってくる感覚があった。
「……なんとなく、コツは掴めてきた、かも」
「無理はなさらないでくだされ」稲荷が横目でそれを見ながら言った。「目覚めたばかりの由緒は、まだ不安定なのじゃ。昨夜のように大きく発現させれば、必ず外に知れ渡ってしまうのじゃ」
「知れ渡るも何も」阿形がゲーム機から顔を上げずに言う。「もう昨日の時点で、機構にはバレてます」
「だから僕らも、悠長にはしていられないというわけです」吽形が続けた。
「それはそうと」阿形がふと真顔になって顔を上げた。「俺たちも人の形になったんだから、そろそろちゃんとした服が欲しいです。いつまでもこの、狛犬時代からの布切れじゃ格好つきません」
「贅沢言うでない」稲荷が呆れたように言う。「妾など、昨日の今日で人型を保つだけで精一杯なのじゃから」
「稲荷は器用だからいいですけどね」吽形がぼやいた。
たわいもないやり取りに、紡樹はまた小さく笑ってしまう。ついこの間まで、独りきりで境内を掃いていたことが、もう随分と昔のことのように感じられた。
昨日までの、由緒管理機構だの三陣営だのという緊迫した空気が嘘のように、いつも通りの朝が流れていく。
「そういえば、紡樹さま」稲荷が思い出したように言った。「昨夜のあの光、配信の視聴者にも見えていたのではないかのう?」
「あ……」
紡樹は慌ててスマホを取り出し、自分のチャンネルを開いた。普段は数件しかつかないコメント欄が、今朝は妙に賑わっている。
――《昨日の夜、空が光ってたのって、ここの神社だったの!?》
――《まって、この人的中率高すぎ由緒解説チャンネルだ》
――《同時接続、17人になってる……》
同時接続、十七人。紡樹にとっては、これまでで最多の数字だった。ほんの数人の視聴者が、また数人を呼んだだけの、ささやかな広がり。それでも、紡樹の胸には、じんわりとした熱が灯った。
「たった十七人、だけどさ」
「侮ってはならぬのじゃ」稲荷が言った。「祈りは、数より質なのじゃ。あなたを本気で応援する十七人は、あなたを消費するだけの千人より、よほど大きな力になるのじゃ」
だが、そんな空気は、長くは続かなかった。
顕れの常宮――白の鳥居を戴くその本拠地の一角で、鈴木葵と本田宵は、境内の主鳥居の前に立っていた。
適性を持つ者同士であれば、由緒の格が釣り合う鳥居から鳥居へと、直接渡ることができる。これは「鳥居渡り」と呼ばれ、探索者たちが遠方のダンジョンへ素早く移動するための、ほとんど唯一の手段だった。ただし、渡り先の由緒があまりに小さければ、門は開かない。これまで『豊守神社』などという無価値判定の土地に、鳥居渡りの経路が繋がったことは一度もなかった。
「……本当に、開くのね」
宵が息を呑む。目の前の鳥居が、淡く発光している。
「常宮からの正式な出動命令は、まだ下りていない」葵が前を見据えたまま言った。「機構が動く前に、我々の手で片を付ける。……宵、それでいいな」
「いいも何も」宵は目を伏せた。「葵くんが決めたことに、わたしが逆らったことなんて、一度もないでしょう」
「逆らえと言っているわけではない。……ただ、確かめておきたかっただけだ。お前の中に、迷いはないかとな」
宵は答えなかった。数日前、境ノ杜で交わした「わたしは分からない」という自分自身の言葉が、まだ胸の奥にわだかまっている。それでも、今さら引き返す理由もなかった。
「由緒管理機構は、三年前の一斉ダンジョン化を受けて発足した、中立の管理組織のはずでしょう。……それなのに、常宮はいつも、機構より先に動きたがる」宵は、鳥居に向き直る葵の背に問うた。
「機構は事例を記録するだけの、器に過ぎん」葵は前を見たまま答えた。「だが器の中身――どの由緒を正史とし、どの由緒を排するか。その基準を握るのは、結局のところ我々のような、力ある陣営だ。機構が中立を装えるのも、我々が裏で秩序を支えているからに過ぎん」
「行くぞ」
葵が短く告げ、ふたりは光の中へ足を踏み入れた。
まばたきひとつの後、ふたりが立っていたのは、透き通った鳥居の下だった。
「これが……隠れ古宮」
宵が周囲を見回す。崩れかけていたはずの境内は、心なしか、以前よりも生き生きとして見えた。廃寺だったはずの一角にも、うっすらと緑が戻り始めている。
「……思っていたより、悪くない気配だ」葵が呟いた。「だからこそ、始末が悪い」




