第五十七話 語られなかった過去
葵を交えた一行は、二上山の中腹で、しばしの休息を取っていた。
紡樹は、ずっと引っかかっていたことを、思い切って氷室冴に尋ねた。
「氷室冴さん。祖父が言ってたんです。二十年前、うちに来たあなたは、当時の祖父より少し若いくらいで、もう何十年も独りで諸国を巡ってきたような目をしていた、って。……でも、三年前のあなたは、まだ奥さんと赤ちゃんがいる年齢だったんですよね。それって、ちょっと変じゃないですか」
氷室冴は、皺だらけの顔に、寂しげな笑みを浮かべた。
「よく気づいたな。……実を言うと、わしが妻と出会い、宵を授かったのは、かなり遅い時期でな。それまでの生涯のほとんどを、独りで由緒を紐解くことだけに費やしておった。人並みの幸せを望むには、もう遅すぎると思っていた頃に、ようやく出会えたのだ」
「そうだったんですね……」
「二十年前の時点で、すでに何十年も旅をしていた、というのは事実だ。……わしは、人よりずっと早くに『境界を結び直す』ことに取り憑かれてしまった人間なのでな」
結樹が、少し離れた岩に腰掛けたまま、静かに口を挟んだ。
「境界、か。……それも、二重の意味があるのかもしれないね」
「二重?」紡樹が振り返る。
「予言にある『境界』って、神仏の境界だけを指しているとは限らない」結樹は、宵の方をちらりと見た。「氷室冴が弾かれて迷い込んだのは、時が狂う渚だった。……つまり、この予言が指す境界は、神仏の境界であると同時に、時そのものの境界でもあるのかもしれない」
氷室冴が、大きく頷いた。
「わしも、同じことを考えていた。だからこそ、紡樹――お前が生まれた年に、わしが弾かれたのも、単なる偶然ではないのかもしれぬ」
紡樹の背筋が、冷たくなった。
「僕の無効値判定と、あなたが消えたのが、同じ年だったこと……」
「境界が、大きく軋んだ年だったのだろう。……その軋みが、遠く離れたお前の由緒にも、何かしらの影響を与えたのかもしれぬ」
しばしの沈黙の後、紡樹はふと、結樹の方を見た。
「結樹はさ、前に言ってたよね。『明るい話は僕の周りにひとつもない』って。……あれ、どういう意味だったの」
結樹は、一瞬、答えを探すように視線を彷徨わせた。
「……僕の家は、代々、語り部衆の血筋でね。物心つく前から、消された悲劇を聞かされて育った。楽しい昔話の代わりに、な」
「それって……」
「柊が、僕のことを『歴史に取り憑かれた哀れな奴』ってからかうのも、当たらずとも遠からずってやつだよ」結樹は自嘲するように笑った。「暴いた後の筋書きなんて、僕自身、まだ書けたことがない。……ただ、消された者たちを覚えていることだけが、僕の存在意義だと思って生きてきた」
紡樹は、その言葉に、初めて結樹という人間の輪郭を、はっきりと捉えた気がした。
「筋書きは、これから一緒に書けばいいよ」
結樹は驚いたように紡樹を見て、それから小さく笑った。
「……君は、本当に、そういうことを平気で言うよね」
二上山に、静かな夜が訪れようとしていた。
紡樹のスマホが、ポケットの中で小さく震えた。画面を見ると、見慣れない着信があった。
「……父さん?」
思わず声が漏れた。物心ついてから、父から連絡が来たことなど、数えるほどしかない。
震える指でメッセージを開くと、短い一文だけが記されていた。
『配信、ずっと見てる。……頑張れ』
紡樹は、しばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
「どうしたの?」宵が心配そうに覗き込む。
「……なんでもない」紡樹は目元を拭い、小さく笑った。「ちょっと、思ってたより見守ってくれてた人がいたみたいで」
夜風が、二上山の稜線を静かに撫でていった。




