第四十五話 結び損ねた境界
囲炉裏の火を挟んで、氷室冴はゆっくりと語り始めた。
「わしはな、由緒管理機構に入って間もない頃から、神仏習合の力に取り憑かれておった。……幼い頃、旅の途中で立ち寄った小さな神社で、剥がされた由緒書きを見つけてな。神と仏が、引き裂かれる前は共にあったのだと知った時の衝撃を、今でも覚えておる」
「豊守神社、ですか」紡樹が静かに言った。
「よく分かったな。……あの社の由緒も、若い頃に随分と調べさせてもらった」
氷室冴は目を細め、懐かしむように続けた。
「わしはいつしか、こう考えるようになった。……引き裂かれた境界を、この手で結び直せないか、と。三年前、聴聞の場で、わしは禁じ手に手を出した。両属性を、意図的に、力ずくで重ね合わせようとしたのだ」
「力ずくで……」
「本来、境界というのは、自然に馴染んでいくものだ。お前のように、幼い頃から少しずつ、両方の気配に触れて育つのが、正しい形なのだろう。……だが、わしは急いた。理屈で無理やり縫い合わせようとした結果、境界そのものに弾かれてな」
氷室冴は自嘲するように笑った。
「気づけば、この渚に立っておった。時が乱れたこの場所だけが、わしを受け入れてくれたのかもしれん。……それから、幾年経ったのか、わし自身にも分からぬ」
宵は、震える声で尋ねた。
「……わたしは。わたしは、あなたにとって、何なのですか」
氷室冴の目が、初めて大きく揺れた。
「……その顔、その目。やはり、間違いない」
「教えてください」
「聴聞に臨む前、わしには、妻と、生まれたばかりの娘がおった。もし失敗すれば、この身がどうなるか分からぬと悟っていたわしは、娘だけは危険から遠ざけようと、常宮に預けた。……穢れなき神道の力で、あの子を守ってほしいと、頭を下げてな」
宵が、両手で口元を覆った。
「では、わたしは……」
「宵。それが、お前につけた名だ。夜が明ける前の、一番静かな時間に生まれたから、そう名付けた」
囲炉裏の炎が、ぱちりと爆ぜた。
宵は言葉を失ったまま、老いた父の顔を、ただじっと見つめ続けていた。三年という月日と、そこに刻まれたはずのない幾十年もの歳月が、ひとつの顔の上で重なり合っていた。
「……嘘、みたい」
「わしも、こんな形で再会するとは、思うておらなんだ」氷室冴は静かに目を伏せた。「お前を守るためにしたことが、お前をこんなにも長く、独りにしてしまった。……すまなかった」
紡樹は、そのやり取りを、声もかけられずに見守っていた。境界を結び直すという願いが、これほどの犠牲の上に立っていたという事実に、胸が締めつけられる思いだった。
結樹だけが、少し離れた場所で、静かに呟いた。
「――境界を結び直す、か。それは、ちゃんと結べる願いなのかな。それとも、また誰かを、引き裂くだけの願いなんだろうか」
その問いに、答えられる者は、まだ誰もいなかった。




