第四十四話 老いた渚の主
朝靄の中、紡樹たちは再び老爺の小屋を訪れた。
「昨夜は、賑やかだったのう」老爺は網を繕う手を止めずに言った。「常宮の手の者まで来るとは、大した御方じゃったか」
「宵さんは、もう常宮には戻りません」紡樹が静かに告げた。「だから、教えてください。氷室冴さんについて、あなたが知っていること、全部」
老爺の手が、ゆっくりと止まった。
「……全部、と言われてものう」
「昨日、あなたは言いましたよね。『境界を結び直したい』と言い残した若い男が、この渚から消えたと。それを、まるで昨日のことのように語っていた」
宵が一歩前に出た。
「わたし、あなたの目を見て、思ったんです。……その目、どこかで見たことがある気がして」
老爺は、繕いかけの網をそっと膝に置いた。
「宵、と言ったか。……その名、確か常宮の記録にはなかったはずだ。誰かが、お前に付けたのか」
「わたしの名前を、知っているんですか」
老爺は答えず、ただ深く息を吐いた。潮風が、彼の白髪を静かに揺らした。
「この渚では、時は真っ直ぐに流れぬ、と言うたな。……浦島の子が、龍宮で過ごした僅かな間に、故郷では幾百年もの時が過ぎておったという、あの話じゃ」
「まさか……」結樹が息を呑んだ。
「わしにとっては、三年前のことのようでもあり――同時に、もう何十年も昔のことのようでもある」
老爺はゆっくりと立ち上がり、腰を伸ばした。その拍子に、羽織っていた古い上着の合わせ目から、色褪せた身分証のようなものが覗いた。
紡樹は、それに目を留めた瞬間、心臓が凍りついた。
「――由緒管理機構、特別調査官……氷室、冴」
かすれた文字だったが、確かにそう読めた。
沈黙が、渚を支配した。波の音だけが、やけに大きく響いていた。
「……あなたが」宵の声が、震えていた。「あなたが、氷室冴さん、なんですか」
老爺――氷室冴は、皺の刻まれた顔に、寂しげな笑みを浮かべた。
「そう呼ばれていたのは、確かに、わしじゃ。……もっとも、今のわしを見て、そう信じられるかどうかは、また別の話だがな」
紡樹は、言葉を失ったまま、目の前の老人を見つめ続けた。三年前に姿を消した青年が、まさかこれほどの歳月を、たったひとりでこの渚に刻んでいたとは、想像もしていなかった。
「教えてください」紡樹はようやく声を絞り出した。「三年前、あなたに、何があったんですか」




