第四十三話 覚えている、その分だけ
結樹の周囲に立ちのぼった黒い靄が、渚の空気を重く染めていく。
「傷紋、起動」
低く呟いた声に応じて、結樹の腕に、古い傷跡のような紋様が幾筋も浮かび上がった。石目の亀裂とは違う、生々しい裂け目に似た紋だった。
「――なに、その力……」宵が思わず後ずさる。
「僕の力はね」結樹は静かに語った。「この浜で、名も残さず沈んでいった者たちの記憶を、覚えていることで生まれるんだ」
「名も残さず……?」紡樹が問い返す。
「浦島の物語の陰で、幾人もの漁師が、時化の海に呑まれて還らなかった。誰も弔わず、誰も語らなかった。……でも、僕は知ってる。知って、覚えている。それだけで、彼らの無念は、僕の中で生き続ける」
結樹が右手を掲げると、黒い靄が幾つもの人影の輪郭を描き出した。声なき声が、渚に満ちていく。
「――結べ、消された者たちの無念を!」
無数の黒い手が地から伸び、常宮部隊の足元に絡みついた。太刀を振るう間もなく、兵たちの動きが次々と縫い止められていく。
「な、なんだこれは……!」
「これが、語り部衆の力か」壮年の男が、初めて表情に焦りを滲ませた。
「僕はただの語り部だよ」結樹は肩をすくめた。「暴くだけじゃない。……時には、忘れられた者の手を借りることだってある」
密迹が拳を振り上げ、動きを封じられた敵陣に追い打ちをかける。「――砕けよ、金剛咆哮!」
阿形と吽形が息を合わせ、崩れた陣形の隙間を突く。稲荷の幻影が、最後の混乱を煽り立てた。
壮年の男は、膝をつき、太刀を杖のように支えにした。
「……見事だ。まさか、闇の解釈派の手まで借りることになるとは」
「借りたのは、僕の意志だよ」結樹が静かに言った。「宵ちゃんを、無理やり連れて帰らせるつもりはない。……それだけのことさ」
黒い靄が、ゆっくりと結樹の体に還っていく。傷紋の紋様も、傷跡のように薄れて消えた。
「常宮に戻り、正直に報告する」壮年の男は立ち上がり、静かに一礼した。「本田宵様は、発見できなかった、と」
部隊は、来た時と同じように静かに、渚の向こうへと去っていった。
紡樹は、荒い息をつく結樹に歩み寄った。
「……ありがとう。正直、助かった」
「勘違いしないでよ」結樹は視線を逸らした。「僕は、忘れられた漁師たちのために動いただけだ。君のためじゃない」
「でも、宵さんのためには、動いたんだよね」
結樹は答えず、ただ小さく笑った。その笑みには、いつもの芝居がかった調子とは違う、どこか照れくさそうな色が滲んでいた。
宵は、その光景を、複雑な面持ちで見つめていた。
「わたし、常宮に戻れば、今度こそ本当に処分される。……でも、戻らなければ」
「戻らなくていい」紡樹が即座に言った。「宵さんの居場所は、もう常宮だけじゃない」
渚に、静かな夜風が吹き抜けていった。三者三様の思いを乗せて、時の狂う渚の夜は、ゆっくりと更けていく。




