第四十話 波間に灯る、小さな火
老爺が案内したのは、渚のすぐ近くに建つ、板葺き(いたぶき)の小さな小屋だった。
囲炉裏には、いつからそこにあったのか分からないほど古い炭が、静かに燃えていた。
「阿形さんたちは?」紡樹が尋ねると、鏑木が困った顔で答えた。
「少し離れた高台に、野営の準備をしています。……あの時間の歪みのせいか、皆さん、離れた場所の方が落ち着くと言って」
「妾は、この気配とは相性が悪いのじゃ」稲荷が渋い顔で付け加えた。「幻術を得意とする身には、時が惑うこの土地は、少々気持ちが悪いのじゃ」
囲炉裏端には、紡樹と宵、ふたりだけが残った。
しばらく、どちらも口を開かなかった。炭の爆ぜる音だけが、静かに響いていた。
「……訊いてもいい?」紡樹が先に口を開いた。「常宮での暮らし、どんな感じだったの」
宵は、少し驚いたように顔を上げた。
「……厳しかった、とだけ言っておく。清らかであれ、正しくあれ、と。それ以外の言葉は、あまり必要とされなかった」
「家族は?」
「分からない。物心ついた時には、もう常宮の奥の間にいた」宵は炎を見つめたまま続けた。「誰かに聞いても、はぐらかされるだけ。……だから、氷室冴という名前を聞いた時、あんなに動揺したこと、自分でも不思議だった」
紡樹は黙って耳を傾けた。
「わたし、もしかしたら――誰かに、捨てられたのかもしれない。ずっと、そう思うのが怖かった」
その言葉には、これまでの冷たい巫女の顔からは想像できないほどの、素の脆さがあった。
「じゃあ、僕も正直に言うよ」紡樹はぽつりと呟いた。「今日、初めて分かった。……由緒を調べて、理解すれば、大抵のことは何とかなるって思ってた。でも、ここじゃ、それが全然通用しない」
「あなたでも、そんなことがあるのね」
「情けないけど、ね。……氷室冴さんのこと、僕らだけじゃ、たぶん解けない気がしてる」
宵は、そんな紡樹を、少し意外そうに見つめた。
「弱音を吐く探索者、初めて見た」
「宵さんだって、さっき弱音吐いてたじゃないか」
「それは、そうだけど……」
宵は珍しく言葉に詰まり、それから小さく笑った。今までのどんな表情とも違う、年相応の、あどけなさの残る笑みだった。
囲炉裏の入り口に、老爺が立っていた。
「若いふたりが、良い顔をするようになったわい」
「……何か、知っているんですね」紡樹が静かに問うた。
老爺は少し黙り込んでから、ゆっくりと語り出した。
「三年前――いや、わしにとっては、つい先だってのことのようでもあるが。ひとり、若い男がこの渚に流れ着いた。名は聞かなんだ。ただ、夜通し海を見つめて、こう言うておった。……『境界を、結び直したい』とな」
紡樹の心臓が、大きく跳ねた。祖父が語っていた、あの見知らぬ若者の言葉と、寸分違わず同じだった。
「その人は、今……」
「朝になったら、いなくなっておった。波打ち際に、履物だけを残してな」
老爺はそこで言葉を切り、炎の向こうに目をやった。
「――浦島の子も、そうやって還れなくなったのだと、この浜では言い伝えられておる」
紡樹と宵は、思わず顔を見合わせた。答えに近づいたはずなのに、むしろ謎は、ひとまわり大きくなったように感じられた。




