第三十九話 時の狂う渚
鳥居渡りの光が収まると、潮の匂いが真っ先に鼻をついた。
だが、何かがおかしい。
空はまだ夕暮れのはずなのに、波打ち際だけが、夜のように暗い。逆に、少し先の松林には、朝の光のような白さが差し込んでいる。ひとつの場所に、いくつもの時間が重なっているような、奇妙な眺めだった。
「……気持ち悪いであります」阿形が眉をひそめた。「敵の気配は、感じないんですけど」
「僕もです」吽形が周囲を見回す。「代わりに、何と言えばいいか……間合いの取りようがない、というか」
「時の匂いが、混ざっておるのじゃ」稲荷が珍しく硬い声で言った。「妾の勘では、これは戦って祓えるようなものではないのじゃ」
「発動配信システム、起動確認……できません」鏑木が端末を何度も操作しながら、困惑した声を上げた。「反応が、安定しないんです。時刻の記録すら、正しく打刻されなくて」
紡樹は懐から朱印帳を取り出した。だが、ページに触れても、いつものような手応えがない。ただ静かに、朱と墨の印がそこにあるだけだった。
「……ここ、うまく由緒を読み取れない」
紡樹は正直に呟いた。今までなら、調べて、理解すれば、必ず何かが開けた。だが今は、手がかりすら掴めない感覚だけがあった。
社の奥、朽ちかけた鳥居の下に、腰の曲がった老爺がひとり、網を繕っていた。
「あの、すみません。ここは……」
「汐乃宮じゃよ。あんたら、迷い込んだのかね」
老爺は顔も上げずに答えた。
「ここに、氷室冴という人が来たこと、ありますか」
老爺の手が、一瞬止まった。だが、すぐにまた網を繕い始める。
「さあてなあ。……この浜には、時々、時に迷った旅人が流れ着く。名前までは、覚えとらん」
「三年前だと思うんです。とても大事なことで……」
「三年前、か。……わしにとっては、昨日のようでもあり、五十年前のようでもある」
老爺はそう言うと、ふっと顔を上げて、初めて紡樹を見た。その目は、驚くほど澄んでいた。
「坊主、由緒というのは、いつでも紐解けるものだと思うとるじゃろう」
「え……」
「ここでは、それは通用せん。時が、真っ直ぐに流れておらんのだからな」
紡樹は言葉に詰まった。今まで一度も感じたことのない類の壁だった。
「じゃあ、どうすれば……」
老爺は答えず、また網に目を落とした。
その時、松林の奥から、白い狩衣の裾が翻るのが見えた。
「……宵さん!?」
紡樹の声に、老爺の手がまた止まった。
宵は息を切らしながら、こちらへと駆け寄ってきた。常宮の随行員の姿はない。ひとりだった。
「まさか、こんなところで会うなんて」宵は驚いた顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。「わたしも、氷室冴のことを、自分の目で確かめたくて……常宮には、無断で」
「宵さんも?」
「あの日から、ずっと考えてた。……氷室冴という名前を聞いてから、自分の中の何かが、少しずつ形になっていくような気がして。それが、怖くもあり、知りたくもあり」
紡樹は、宵のその言葉に、自分と同じ焦りと迷いを見た気がした。
「僕も、実は今、手も足も出ない状態で……」
「あなたでも、そんな顔をするのね」
宵はそう言って、ほんの少しだけ、口元を緩めた。これまで見た中で、一番自然な表情だった。
老爺は、そんなふたりを、静かに見つめていた。
「――時が乱れた渚では、急いた者から先に迷う。……今宵は、もう遅い。休んでいくがいい」
夜とも朝ともつかない光の中、紡樹と宵は、初めて敵でも他人でもない距離で、並んで立っていた。




