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第三話 紡げ、歴史を



紡樹の手のひらに、朱印帳の表紙がひやりと触れた。


一瞬、鼓動が止まったかと思うほどの静寂があった。


そして――光が奔った。


右手側のページに、燃えるような朱色の印が浮かび上がる。神社の御朱印のような、力強い意匠だ。同時に、左手側のページには、墨のように深い黒の印が広がっていく。梵字(ぼんじ)を思わせる、荘厳な紋様。


「なっ……!?」


祖父が息を呑む音が聞こえた。「本当に……両方の由緒が、同時に――」


紡樹の脳裏に、映像とも記憶ともつかないものが流れ込んでくる。かつてこの土地にあった、神と仏が寄り添う社の姿。祈りを捧げる人々の声。そして、それを引き裂こうとする、大きな力の気配。奔流の中に、一瞬だけ、顔の見えない誰かの後ろ姿が混じっていた。同じように朱印帳を掲げ、同じように光に包まれていた、遠い昔の誰か。その姿は、すぐに霧のように消えていった。


視界が滲む。悲しいわけでも、痛いわけでもないのに、涙が止まらなかった。ずっと欲しかった居場所を、ようやく見つけたような、そんな温かさだった。


境内の奥、長年動かなかったはずの一対の狛犬像――苔むし、片方は口を開き、もう片方は固く閉ざした、阿吽(あうん)の狛犬の目に、微かな光が灯った。石の身体が、かすかに軋む。同時に、社務所の脇に鎮座していたはずの狐の石像――稲荷の像もまた、淡い狐火に包まれた。長年風雨に晒されてきた置物にしては、あまりに禍々しく、そしてどこか艶やかな気配だった。


「じいちゃん……なんか、狛犬が」


「あの子らは阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)、対の狛犬じゃ。ずっと眠っておった。……お前の目覚めに、応えたんじゃろう。そして、お前の後ろにおる狐の像も……もう、隠す必要はなさそうじゃな」


紡樹が振り返ると、稲荷だった石像の輪郭が揺らぎ、人の形に近い、小柄な影へと変わっていく。


「――やっと、目覚めたのじゃな、紡樹さま」


鈴の音のような声だった。祖父は涙ぐみながら、しかしどこか誇らしげにその光景を見つめていた。「……お前のご先祖も、きっと同じ景色を見ておったんじゃろうな」


朱印帳から溢れる光が、紡樹の全身を包み込んでいく。もう止まらない。止める気もなかった。ずっと「エラー」と呼ばれてきた自分の中にあったものが、今、正しい名前を得ようとしている。


紡樹は、朱印帳を両手でしっかりと抱きしめ、まっすぐに立ち上がった。


「神社(かみ)の威光と、寺院(ほとけ)の慈悲――ふたつの由緒、確かにこの魂に拝受した! 紡げ、歴史を!」


叫んだ瞬間、豊守神社の境内全体が、淡い金と紫の光に包まれた。空にまで届くその輝きは、遠く離れた町からも見えるほどだったという。


光が収まりきらぬうちに、境内の奥、廃寺跡の瓦礫の隙間から、地鳴りのような音が響いた。


「げっ、なに今の」


紡樹が振り向くと、崩れた本堂の跡から、黒く煤けた影が這い出してきていた。人の形をしているようで、輪郭はひどく歪んでいる。まとう空気は、怒りというより、深い悲しみに近かった。


「あれは……」祖父が息を呑んだ。「由緒の残滓じゃ。長年打ち捨てられ、誰にも顧みられなかった祈りが、澱のように凝り固まったもの。ダンジョン化と同時に、目を覚ましてしもうたか」


阿形と吽形が低く唸り、影との間に割って入る。稲荷――今は狐火をまとった少女の姿になった彼女も、爪を尖らせて身構えた。


「紡樹さま、いかがなさるのじゃ? あれを祓うのか、それとも」


「祓う……のかな、普通は」


紡樹は影を見つめた。よく見ると、その輪郭には、擦り切れた僧衣と、色褪せた狩衣の両方が重なって見える。まるで、神主と僧侶が、寄り添ったまま朽ちていったかのように。


胸の奥が、ずきりと痛んだ。理屈ではなく、感覚として分かった。これは倒すべき敵ではない。


紡樹は一歩前に出て、朱印帳をそっと影に向けた。


「お前……ずっと、独りだったんだな。神様も仏様も、ふたりで祀られてたはずなのに、途中でバラバラにされて。……ごめん。誰も、ちゃんと見てあげられなくて」


朱印帳の両ページから、朱と墨、ふたつの光がゆっくりと影に注がれていく。影が身をよじり、悲鳴とも安堵ともつかない声を上げた。


「大丈夫。今度はちゃんと、両方まとめて――紡ぐから」


光に包まれた影は、次第にかたちを失い、最後には小さな、優しい光の粒になって、夜空へと溶けていった。あとに残ったのは、静けさと、どこか清々しい空気だけだった。


「……見事じゃ」祖父が呟いた。「歴史とは、裁くものではなく、寄り添うもの。お前は、それを最初から分かっとったんじゃな。……こやつも、ずっとこの結末を待っておったのかもしれんな」


紡樹は照れくさそうに頭をかいた。「なんとなく、そう思っただけだよ」


その証拠のように、崩れていた本堂の柱の一本に、うっすらと文字が浮かび上がった。長い間、風雨に晒されて読めなくなっていた扁額(へんがく)の一部が、淡く発光している。まだ全部は読み取れない。だが、確かにそこに、何かが刻まれていた。


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