第二話 千年をつなぐ、無字の帳
日が沈み、境内の掃除を終えた紡樹が社務所に戻ると、囲炉裏端に座った祖父――豊田倫が、湯呑み片手に彼を待っていた。
「紡樹、こっちに来い。話がある」
「今日はまた、やけに真剣な顔してるね、じいちゃん」
「今日、境ノ杜で戦闘があったのは知っとるか」
「ああ、うん。配信で見た。すごかったよ、権威派の人たち」
祖父は湯呑みを置き、しばらく黙り込んでから、静かに語り始めた。
「紡樹。お前は、うちの神社の歴史をちゃんと知らんだろう」
「歴史って……江戸時代からある古い神社ってことくらいしか」
「甘い」祖父は苦笑した。「ならば、教えてやろう。まず、そもそも神と仏というのは、この国では長らく――一体のものだったんだ」
「一体? でも今は、神道と仏教、別々の力じゃないの」
「今はな。だが千年以上前、この国に仏教が伝わってから――正確には六世紀の半ば、朝鮮半島の百済から公式に伝来したとされとる――日本古来の神々と、外から来た仏とは、争うのではなく、次第に溶け合っていったんじゃ。神仏習合、という」
紡樹は箒を壁に立てかけ、祖父の前に腰を下ろした。
「奈良から平安の時代にかけて、多くの神社の境内には『神宮寺』という寺が建てられた。神を祀る場所に、仏を祀る堂が並んで立っておったんじゃ。記録に残る最初期の神宮寺のひとつは、奈良時代、天平年間に建てられた多度神宮寺だと言われとる。それに、東大寺の大仏建立の折には、遠く九州の宇佐八幡の神が『われ天神地祇を率いて、必ず成し遂げよう』と託宣を下し、朝廷を助けたという逸話も残っておる。山に籠って修行する修験道も、神と仏、そして山そのものへの信仰を、ひとつに練り上げた行だったんじゃ」
「へえ……」
「そして、こう考えられるようになった。日本の神々というのは、実は仏や菩薩が、この国の人々を救うために姿を変えて現れたものなのだ、とな。それを、本地垂迹説という。武神として名高い八幡神は、『八幡大菩薩』とも呼ばれておった。熊野の山々に祀られる神々は、阿弥陀如来や薬師如来、観音菩薩の化身とされた。比叡山の麓、日吉の神は、天台の教えと結びついて山王神道を生み出した。……神主が経を読み、僧侶が神前で祝詞を耳にする。それが、当たり前の光景だったんじゃ」
祖父の声には、どこか懐かしむような響きがあった。
「じゃあ、なんで今は、神道と仏教、こんなにきっぱり分かれてるの?」
「明治じゃ」祖父の目が、わずかに翳った。「西暦一八六八年、明治政府は『神仏判然令』――世にいう神仏分離令を発した。国家の柱として神道を据えるため、神社から仏教的なものを一切取り除けと命じたんじゃ。神宮寺は取り壊され、仏像は焼かれ、僧籍にあった神職は還俗を強いられた。それだけでは済まん。民衆の間に鬱積しておった不満も重なって、廃仏毀釈という嵐が全国を吹き荒れた。奈良の興福寺などは、廃仏毀釈のあおりを受けて僧侶らが還俗させられ、荒れ果てるがままにされた時期があってな。五重塔が二束三文で売られかけたという話も伝わっておる。日光の東照宮も、元々は輪王寺という寺が管理しておった。それが分離令のあと、無理やり切り離された。大和の談山神社にいたっては、明治より前は妙楽寺という寺そのものじゃったのを、無理やり神社に作り替えられたんじゃ。何百年と続いた信仰の形が、わずか数年で、根こそぎ引き剥がされた。……由緒とは、時の権力に都合よく書き換えられる。それを、忘れちゃならん」
紡樹は言葉を失った。配信で見た「顕れの常宮」の理屈――神仏の混在は穢れであり、バグである、という主張が、頭の中で急に色を変えた。
「まったくの余談じゃが……今でも、たとえば金峯山寺のように、神仏習合の名残を色濃く残す修験の霊場はある。分離令のあとも、完全に消えてしまったわけではないんじゃ。……もっとも、この探索者の世界じゃ、そんな話は誰も表立っては口にせんがな」
「それって……今の『権威派』が正しいって言ってる歴史も、本当は――」
「その先は、自分の目で確かめるしかなかろうな」
祖父は立ち上がり、社務所の奥にある古い納戸から、埃をかぶった木箱をひとつ運んできた。
「紡樹。うちの神社な……本当は、隣の廃寺と、もともとひとつだったんじゃ。初代の宮司――お前で言えば、五代前のご先祖にあたる豊田景清は、時の役人に社殿の仏像を差し出せと迫られた夜、こっそり本尊を裏山に埋め、代わりに何の変哲もない石を差し出したそうじゃ。以来うちの神社は、『由緒なき寂れた社』として、誰の目にも留まらず、ひっそりと生き延びてきた。表向きは、ただの寂れた神社と、無住の廃寺。だが本当は――今も、繋がっとる」
「お前の父さんも母さんも、実はうっすら勘づいておる。じゃが、深くは詮索せんように、わし自ら口止めしてきた。知れば知るほど、危うくなるものもあるからのう」
木箱の蓋を開けると、中には一冊の古びた朱印帳があった。だが、そのどのページにも、文字も朱印も、何ひとつ記されていない。真っ白なままだ。
「これは……?」
「『無字の朱印帳』。うちの家系にだけ伝わる、由緒の器じゃ。神社の由緒と、寺の由緒、その両方を正しく理解し、心から尊んだ者にしか、ページは開かれない。わしも若い頃、一度だけ触れてみたことがある。じゃが、ページはピクリとも動かなんだ。歴史を守ることと、歴史を心から尊び、理解することは、似ているようで違う。わしは、ただ守ることしかできなんだ」
祖父は静かに、朱印帳を紡樹の手に乗せた。
「触れるだけでいい。だが覚悟しろ。もし本当にお前が『継ぐ者』なら――もう、後戻りはできんぞ」




