第三十三話 刻まれる、不動の心紋
吽形が踏み出したその一歩に、不動丸の錫杖がわずかに揺れた。
「まだ、来るというのか」
「あなたの炎は、本物です」吽形は静かに続けた。「だからこそ、僕も本気で受け止めます。……それが、礼儀だと思うので」
金と紫の光を纏ったまま、吽形はまっすぐに間合いを詰めた。不動丸が最後の力を振り絞り、水と炎を撚り合わせた一撃を放つ。だが、吽形の壁はその軌道ごと受け止め、静かに――押し返した。
不動丸の体が、たたらを踏んで後ろへよろめく。錫杖が石畳に落ち、乾いた音を立てた。
「……参った」
不動丸は水気を払うように顔を拭い、諦めたように笑った。
「動かぬことが、これほどの強さになるとはな。……お前、いい目をしている。長年、山にこもって行を積んだ者だけが持つ目だ」
「僕はまだ、目覚めて日が浅いです」吽形は淡々と返した。「でも、守りたいものは、最初からはっきりしていました」
「よかろう。案内してやる」
不動丸は錫杖を拾い上げ、不動堂の裏手へと歩き出した。滝壺の脇、苔むした岩をくぐった先に、小さな祠が隠されていた。
「この滝は、元々『水神の滝』と呼ばれておった。地元の民が龍神を祀り、雨乞いをした場所だ。……修験の行者たちがここに入るようになったのは、後のことよ。滝に打たれる荒行を積む場として、不動明王の力と、この地の龍神とが、いつしか重なり合うようになった」
祠の奥、朽ちかけた石碑に、不動丸がそっと苔を払った。かすかに、二重に刻まれた紋様が浮かび上がる。
「不動明王は、事実、水と縁が深い。各地の滝行の霊場には、必ずと言っていいほど不動明王が祀られておる。荒々しい水の力を鎮め、行者を守る者として、龍神と不動明王は、長らく同じ場所で拝まれてきたのだ」
「じゃあ、この石碑も……」紡樹が覗き込んだ。
「分離令のあと、龍神の社は取り壊され、不動堂だけが残された。今の名に『不動ヶ滝』とあるのは、その名残よ。……本当は、水神と不動、ふたつで一対だったのだがな」
吽形が石碑にそっと手を触れる。指先を通して、遠い記憶が流れ込んでくるようだった。
「――僕らも、同じですね。誰かと対で在ることを、ずっと待っていたのかもしれません」
朱と墨、ふたつの光が吽形の体を包み込んでいく。石目の亀裂が、今度は静かな喜びのように輝いた。空間に朱肉の印影がひとつ浮かび、ゆっくりと溶けて消える。
「――心紋、刻まれました」
吽形は自分の胸に手を当て、いつになく穏やかな声で呟いた。
「感じるか?」紡樹が尋ねると、吽形は小さく頷いた。
「守りの届く範囲が、広がった気がします。……この身ひとつだけでなく、隣にいる誰かごと、包み込めるような」
「よかったな、吽形!」阿形が肩を叩いた。「これで二つ目の心紋であります」
「妾たちも、負けてはおれぬのじゃ」稲荷が腕を組んで笑った。
密迹が豪快に頷いた。「うむ、次は我の番だな! 心してかからねば」
不動丸は、その光景を少し離れたところから見つめていた。
「……悪くない目だ、豊田紡樹。この不動明王の霊気、これからも役立ててやってくれ」
「ありがとう、不動丸さん」
「鏑木さん、次の候補地は?」紡樹が尋ねる。
鏑木は端末を確認しながら、少しだけ声のトーンを落とした。
「荒法師山・羅漢寺跡、というところが挙がっています。……密迹さんに、直接関わりのある場所のようですね」
密迹の表情が、わずかに強張った。腕を組んだまま、しばらく黙り込む。
「……那羅延の、手がかりが眠っておるかもしれぬ、ということか」
誰も、それ以上は言わなかった。だが、その場にいる全員が、密迹の百五十年の孤独の続きを、これから見届けることになるのだと、静かに悟っていた。
紡樹のスマホには、配信を締めくくる直前のコメントが並んでいた。
――《吽形、静かなキャラだと思ったら喋ると饒舌で草》
――《次、仁王さんの回か。那羅延ってなんだろ》
滝の音が、いつもより穏やかに聞こえた。不動ヶ滝を後にする一行の足取りは、来た時よりも、確かに軽やかだった。




