第三十二話 ――退かぬ、それが僕の理です
滝の飛沫が、吽形の頬を叩いた。
不動丸は答えを待たなかった。錫杖の石突き(いしづき)が岩を打つと同時に、滝の水そのものが意思を持ったようにうねり、幾条もの水刃となって吽形めがけて殺到する。
「行を積まぬ者に、この社の由緒は語れぬ。……まずは、その身で受けてみよ」
吽形は動かなかった。両腕を軽く交差させただけで、迫る水刃をすべて受け止める。水柱が砕け散り、白い飛沫が辺りを覆った。
「……なるほど。噂に違わぬ守り、か」
「僕の役目は、攻めることではありません」吽形は静かに言った。「ただ、そこに立ち続けること。それだけです」
「阿形さん、援護しますか!?」鏑木が声を張り上げる。
「いや」阿形が首を振った。「今のあいつに、余計な手出しは無用であります。……見ててやりましょう」
密迹も腕を組んだまま頷いた。「うむ。門を守る者同士、水入らずというやつよ」
不動丸は錫杖を掲げ直し、今度は炎を纏わせた。滝の水しぶきの中で、赤々とした火が消えることなく揺らめいている。
「不動明王は、剣と羂索を手に、燃え盛る炎――迦楼羅炎を背負う。あの炎は、信ずる者を焼くための炎ではない。己の内にある迷いや煩悩を焼き尽くすための炎だ。かつて平将門の乱の折、朝廷の勅を受けた寛朝大僧正が、空海自らが刻んだと伝わる不動明王像を奉じ、乱の鎮まるまで護摩の火を絶やさず祈り続けたという。乱が鎮まったのち、その火はこの地――今の成田山に留め置かれ、以来千年、一度も絶えたことがないと伝わっている」
炎を纏った水刃が、先ほどより鋭く吽形へ襲いかかった。
「不動明王は、瑟瑟座と呼ばれる岩の上に立ち、決して動かぬ。動かぬからこそ、周囲のあらゆる迷いを断ち切れる。……お前の『絶対防御』とやらも、所詮は逃げているだけの臆病風ではないのか」
言葉の刃が、水の刃と共に突き刺さる。だが吽形の表情は、揺らがなかった。
「臆病、ですか」
石の肌に、細かな石目の亀裂がうっすらと走った。狛犬だった頃から変わらぬ、彼だけの証だ。
「僕は、狛犬として何百年も、ただ境内の入り口に立ち続けてきました。誰かが通り過ぎるのを、ただ見送るだけの日々です。……でも、あの人が――紡樹さまが僕を目覚めさせてくれた夜、初めて分かったんです。動かずにそこに立ち続けることは、逃げることじゃない。誰かを守り抜くという、覚悟そのものなんだって」
朱印帳を懐に抱いた紡樹が、少し離れた岩陰から、その言葉を静かに聞いていた。
「不動明王が岩座から動かないのは、迷いを抱えて彷徨う衆生を、いつでも受け止められるようにするためだと、僕は思います。攻め立てることだけが、強さじゃない。……あなたの炎と、僕の理と、根っこは同じかもしれませんね」
吽形の肌の亀裂が、金と紫の光を帯び始めた。朱と墨、ふたつの気配がせめぎ合い、やがて重なり合っていく――隠れ古宮の由緒力に特有の輝きだった。
「発動配信システム、稼働確認!」鏑木が端末を構え直す。紡樹のポケットで、スマホが震え続けていた。
――《吽形、めちゃくちゃ喋る子だったんだ》
――《不動明王のくだり、普通に勉強になる》
――《この後どうなるの、水しぶきで画面見えない》
「――退かぬ、それが僕の理です。不動の理、以て受け止める」
空間に朱肉の印影が一瞬浮かび、静かに溶けて消えた。吽形の周囲に、透き通った金と紫の光の壁が立ち上がる。それは盾というより、まるで岩そのもののような、揺るぎない気配を纏っていた。
不動丸が渾身の力で放った、増水した滝ひとつ分ほどの水量――業火をまとったその奔流が、吽形へと叩きつけられる。
轟音。水煙が視界を白く塗りつぶす。
――だが、光の壁は、微塵も揺らがなかった。
水煙が晴れた先、吽形は元の場所に、変わらず静かに立っていた。錫杖を握る不動丸の手が、わずかに震えている。
「……馬鹿な。あの水量を、正面から受け切っただと」
「まだ、終わっていません」
吽形が一歩、初めて前へと踏み出した。




