第二十九話 白狐、乱舞す
「これは記録しておかないと」鏑木が咄嗟に端末を構え直した。「――発動配信システム、作動確認。稲荷さんの由緒力、正式に登録されます」
紡樹のポケットの中で、スマホが静かに震えた。まだ夜も遅い時間だというのに、配信の同時接続数が、みるみるうちに跳ね上がっていく。
――《うおおおおおキタ―――!!》
――《これが例の白狐か! かわいい系だと思ったらガチバトルすんの!?》
――《同時接続、もう300人超えてる》
「――行くぞ」
玉藻の声とともに、九つの狐火が一斉に牙を剥いた。
火球ではない。それぞれが意思を持つ狐の姿となって、四方八方から稲荷めがけて殺到する。夜の杜が、九色の紅蓮に染め上げられた。
「甘いのじゃ」
稲荷の体が、揺らいだ。
いや――消えた。
九つの狐火が空を切り、代わりにその場に残っていたのは、ただの残像。境内の宙に、淡い狐火の軌跡だけが弧を描いて浮かんでいる。地面すれすれを滑るように、稲荷の姿は次の瞬間、まったく別の場所に立っていた。
「幻術……!?」
玉藻が声を上げた瞬間、稲荷はすでに背後に回り込んでいた。
「白狐の幻惑」
呟きとともに、稲荷の肌に細かな石目の亀裂が走り、淡く発光する。空間に、朱肉の印影が一瞬だけ浮かび、静かに溶けて消えた。
「見せてもらったのじゃ。お前の狐火、九つあっても、狙う場所は結局ひとつだけ――本体だけなのじゃろう?」
「なに……!?」
稲荷の輪郭が、揺らめきながら三つ、四つと増えていく。本物はどれか。玉藻の目でさえ、瞬時には見極められなかった。
「幻惑と書いて、惑わすと読む。妾の流儀じゃ」
四つの稲荷が、同時に地を蹴った。狐火の尾が、それぞれ違う軌跡を描いて宙を舞う。
玉藻は咄嗟に九つの狐火をすべて展開し直そうとするが、間に合わない。分身のひとつが懐に飛び込み、鋭い爪が狩衣の袖を掠める。同時にもうひとつが背後へ、さらにもうひとつが頭上へ。三方からの同時攻撃に、玉藻の白い尻尾がぶわりと逆立った。
「くっ――!」
玉藻は防御に徹するしかなかった。攻撃をいなすたびに、狐火がひとつ、またひとつと崩れて消えていく。
「まだまだ、なのじゃ!」
四方から迫る分身の中心で、稲荷の目だけが、獲物を見定める猟師のように鋭く光っていた。
最後の狐火が霧散した瞬間、四つの分身がひとつに溶け合い、本物の稲荷が玉藻の眼前に立っていた。首筋に、爪先がぴたりと添えられる。
「――勝負あり、なのじゃ」
静寂が、境内に降りた。
「……凄まじいであります」阿形が呆然と呟いた。
「一対一に見せかけて、実質四対一に持ち込んでいます。頭脳戦としても完璧です」吽形が感心したように分析する。
「我らの朋輩は、見た目より遥かに恐ろしいな!」密迹が豪快に笑った。
紡樹は、その戦いぶりに目を奪われながら、拳を握りしめていた。
玉藻は、しばらく荒い息をついたまま、稲荷を見つめていた。それから、ふっと肩の力を抜き、小さく笑った。
「……負けたよ。まさか、幻惑だけでここまでやるとはな」
朱印帳から溢れた光が、狐塚稲荷社の小さな鳥居の連なりを淡く照らし出す。稲荷の勝利を祝うように、境内の朱が一段と鮮やかに輝いていた。
紡樹のスマホでは、コメント欄が滝のように流れ続けていた。
――《稲荷ちゃん強すぎ、幻惑の使い方エグい》
――《これもう戦術系配信者じゃん》
――《次はどこ行くの、ずっと見てたい》
「同時接続、まだ伸びてますね」鏑木が画面を覗き込んで目を丸くした。「……これも、記録として機構に報告しておきます。良い意味で」




