第二十六話 祖父の告白
その夜、夕食を終えた後。紡樹は縁側で、湯呑みを手にした祖父と向き合っていた。
「じいちゃん」
「……なんじゃ」
「さっき、審議室で言ってた『分からん』。あれ、本当に全部本当?」
祖父は、しばらく湯呑みの中を見つめたまま、何も言わなかった。夜風が、境内の木々をさわさわと揺らしている。
「……鋭くなったもんじゃな、お前も」
長い沈黙の後、祖父はようやく口を開いた。
「本当に、名前だけを聞いても、それが誰なのかは分からん。それは嘘じゃない。……じゃが」
「じゃが?」
「もう二十年近く前になるか。まだこの神社が、今よりもっと寂れておった頃じゃ。ひとり、うちを訪ねてきた若者がおった」
紡樹は、思わず息を呑んだ。
「その者は、うちの由緒についてやけに詳しく調べておってな。景清様のことや、裏山のこと……わしすら詳しく知らなかったことまで、向こうの方が知っておるような有様じゃった。歳の頃は、当時のわしより少し若いくらいじゃったか。もう何十年も、独りで諸国を巡って調べ続けてきたような、そんな目をしておった」
「その人、名前は……」
「名乗らなんだ。ただ、帰り際にひとこと、こう言っておった」
祖父は目を閉じ、記憶をたどるように続けた。
「『いつか、境界を結び直したい』と。あの時は、変わったことを言う若者じゃとしか思わなんだ。……じゃが、今にして思えば」
「氷室冴、だったのかもしれないってこと?」
「確証はない。じゃが、可能性はゼロではないと思うたから……審議室では、はっきり言い切ることができなんだ」
紡樹の心臓が、大きく高鳴った。もしその若者が氷室冴だったとしたら――彼、あるいは彼女もまた、紡樹と同じように、由緒を紐解こうとしていたことになる。
「じいちゃん、その人がどこへ向かったか、何か手がかりは……」
祖父は静かに首を振った。
「分からん。ただ、去り際に見せた横顔だけは、今も忘れられん。……とても、寂しそうな顔をしておった」
夜空を見上げながら、紡樹はその見知らぬ誰かの横顔を、想像することしかできなかった。何十年も、たったひとりで歴史を紐解き続けた人物。その果てに辿り着いたのが、聴聞の場での、突然の失踪だったのだとしたら――あまりにも、報われない話だった。
「じいちゃん、その人の分も、僕がちゃんと紐解いてみせるから」
祖父は何も言わず、ただ静かに頷いた。月明かりの下、ふたりの間に流れる沈黙は、不思議と温かいものだった。




