第二十五話 ――大丈夫か
休廷が宣言された後も、審議室の空気は張り詰めたままだった。
幹部たちが慌ただしく退室していく中、紡樹は椅子から立ち上がり、宵の方へと歩み寄った。
「宵さん」
「……ごめんなさい、大丈夫です」
宵は顔を上げようとしたが、声にはまだ震えが残っていた。膝の上で握った両手が、白くなるほど強張っている。
「大丈夫そうに見えないけど」
紡樹が思わずそう言うと、宵は弱々しく笑おうとして、失敗した。
「常宮の巫女が、聴聞の場でみっともなく取り乱すなんて……。あってはならないことです」
「そんなの、誰が決めたんだよ」
紡樹の言葉に、宵は虚を突かれたように顔を上げた。
「知らない名前を聞いて、体が勝手に反応した。それのどこがみっともないんだ。……むしろ、ちゃんと反応できるくらい、宵さんの中に何かが残ってたってことじゃないのか」
宵は、しばらく紡樹を見つめたまま、何も言えずにいた。
そこへ、白い狩衣の随行員が二人、足早に近づいてきた。
「本田様。お迎えに上がりました。常宮へお戻りください」
有無を言わせない口調だった。宵の表情が、瞬時に元の硬いものへと戻っていく。
「……行かないと」
「宵さん」
紡樹は、去ろうとする宵の背に、思わず声をかけた。
「氷室冴って人が誰だったのか、僕も一緒に探すから。……宵さんだけの問題じゃない」
宵は振り返らなかった。だが、一瞬だけ、その足が止まった。
「……ありがとう」
小さな呟きだけを残し、宵は随行員に連れられて去っていった。
紡樹は、その後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
「紡樹」
背後から、祖父が声をかけてきた。傍聴席から降りてきた祖父の顔にも、まだ動揺の色が残っている。
「じいちゃん、さっきの名前……本当に知らないの?」
「……分からん」祖父は首を振った。「昔語りの中で、それらしき名を聞いたような、聞いておらんような。歳を取ると、記憶というのは案外あてにならんもんじゃ」
歯切れの悪い返事だったが、紡樹はそれ以上追及しなかった。祖父の表情に、何か言葉にできない複雑なものが浮かんでいるのを感じ取っていたからだ。
「豊田さん」
声をかけてきたのは、鏑木だった。手には、いくつかの書類を抱えている。
「今日は、お疲れさまでした。……予想外の展開になってしまいましたが」
「聴聞、どうなるんですか」
「後日、あらためて日程を組み直します。本田さんの状態次第にはなりますが……おそらく、そう遠くない日になるかと」鏑木は少し声を落とした。「正直に言うと、わたしも今の状況にかなり驚いています。氷室冴という名前が、まさかここまでの反応を引き出すとは」
「鏑木さんも、その名前に心当たりないんですか」
「ありません。……ですが」鏑木は紡樹をまっすぐ見た。「機構としても、この件はもう見過ごせません。次の聴聞までに、こちらでも改めて記録を洗い直してみます」
その言葉に、紡樹は小さく頷いた。ひとりで抱え込む必要はない。味方は、思っていたより多いのかもしれない。
審議室を出ると、扉の外で待っていた阿形たちが、一斉に駆け寄ってきた。
「紡樹さま、お疲れさまです! ……って、なんか、えらい空気じゃありませんか」阿形が周囲を見回して首を傾げる。
「色々あってさ。……帰ったら、ちゃんと話すよ」
「無理はなさらないでおくれ」稲荷が静かに寄り添った。「妾たちは、いつでも紡樹さまの味方なのじゃ」
密迹が、大きな手で紡樹の肩をぽんと叩いた。何も言わなかったが、その分だけ、確かな重みが伝わってきた。
隠れ古宮への鳥居渡りをくぐりながら、紡樹は改めて思った。氷室冴という名前の向こうに、まだ誰も知らない真実が眠っている。それを紐解くことは、きっと自分ひとりの物語では終わらない。宵の、そしてこの世界の、誰かの物語でもあるのだと。




