第二十四話 忘れていたはずの名前
「その方の名は――」
議長が、そこで初めて言葉を止めた。まるで、口にすることそのものを、長年ためらい続けてきたかのように。
室内の誰もが、息を詰めて次の言葉を待っていた。紡樹も、拳を握りしめたまま動けずにいた。
「――氷室冴、という方でした」
その名を、紡樹は頭の中で繰り返した。聞き覚えはない。だが、覚醒の瞬間に見た、あの「顔の見えない誰か」の後ろ姿が、脳裏をよぎった気がした。
その名を聞いた瞬間、傍聴席で小さな音がした。
宵が、手元に置いていた資料を取り落としたのだ。
「……っ」
宵は慌てて拾い上げようとしたが、その手が、はっきりと震えていた。顔からは、みるみるうちに血の気が引いていく。
「本田殿? 大丈夫ですか」
議長が怪訝そうに問いかけたが、宵はすぐには答えなかった。何かを思い出そうとするように、額を押さえて俯いている。
紡樹は、宵の異変に気づいて思わず腰を浮かせかけた。
「宵さん……?」
「――知ってる」
宵が、掠れた声で呟いた。
「その名前、わたし、知ってる気がする。でも、思い出せない……なんで……」
議長の表情が、初めてはっきりと動揺の色を見せた。
「まさか、本田殿は……」
言いかけて、議長はすぐに口をつぐんだ。だが、その一瞬の反応だけで、紡樹には分かった。氷室冴という名前と、本田宵という少女の間には、この場の誰もが知らない繋がりが、確かに存在しているのだと。
宵は震える手で、自分の胸元をきつく握りしめた。
「わたしが常宮に預けられたのは、物心つく前……。誰に、なぜ預けられたのか、ずっと分からないままでした。……でも、今の名前を聞いて、頭の奥が、痛いくらいに疼いています」
沈黙が、審議室を支配した。
傍聴席の祖父もまた、微かに息を呑んでいた。その名に、何か聞き覚えがあるような、ないような――曖昧な表情で、宵の様子を見つめている。
議長は、しばらく目を閉じてから、静かに言った。
「本日の聴聞は、これにて一時休廷とします。……本田殿の体調も鑑みて、後日、あらためて場を設けさせていただきたい」
幹部たちが、慌ただしく書類をまとめ始めた。誰もが、予定になかった急展開に戸惑っているようだった。
槌の音が、やけに重く響いた。
紡樹は、青ざめたままの宵から、目を離すことができなかった。彼女の記憶の奥に眠るものが、今まさに、静かに揺り起こされようとしていた。
聴聞は、思わぬ形で持ち越しになった。だが紡樹の中で、ひとつだけ確信めいたものが芽生えていた。――「あの時」の謎は、もう自分ひとりの物語ではない。宵もまた、その真相の一部を、知らないうちに抱えていたのだ。




