第二十三話 三年前、最初の一人
「――“あの時”の件について、です」
議長のその一言で、室内の空気が明らかに変わった。幹部たちの間に、緊張とも困惑ともつかない沈黙が広がる。
紡樹は喉が渇くのを感じながら、じっと議長の言葉を待った。
「豊田殿は、この呼び名についてどこまでご存知ですか」
「……両属性を併せ持ちながら、聴聞を受けて、その後どうなったか誰も知らない人がいる、と。それだけです。祖父から聞いた話も、鈴木さんたちから聞いた話も、断片的なものでした」
議長は小さく頷いた。
「無理もありません。正式な記録自体が、ほとんど残っていないのですから。……豊田殿がお聞きになった昔語りの一部は、恐らくもっと古い、明治の分離令の頃にまで遡る言い伝えと、混ざり合ってしまっているのでしょう。神仏分離という傷そのものは、百五十年以上、この国に残り続けてきたものですから」
紡樹は、密迹から聞いた「密」の由来や、裏山に眠っていた由緒のことを思い出した。古い傷は、確かにそこかしこに残っている。
「ですが」議長は続けた。「正式な記録に残る、唯一の事例――それは、今からちょうど三年前のことです」
「三年前……由緒管理機構ができたのと同じ頃、ですよね」
「厳密に言えば、そこも曖昧なのです」議長は静かに首を振った。「機構の“設立”がいつだったか、実は今もはっきりとした線引きがありません。混乱の中で急ごしらえに立ち上げられた組織でしたから。……語弊を恐れず言うなら、その一件が起きたからこそ、機構は大急ぎで体制を整える必要に迫られたのです。設立の前か後か、と問われれば――どちらとも言える、というのが正直なところでしょう」
「当時はまだ、機構の体制もろくに整っていませんでした。混乱の中で、その方は簡易的な聴聞を受け……そして、聴聞が終わった直後に、忽然と姿を消しました」
紡樹の心臓が、大きく跳ねた。三年前――ちょうど、自分が「無効値」の烙印を押されたのと同じ年だ。偶然とは、思えなかった。
「姿を、消した……?」
「はい。処罰も、追放もされていません。ただ、いなくなったのです。まるで、最初からそこにいなかったかのように」
議長は、初めて感情らしきものを声に滲ませた。窓の外を見るような、遠い目をしていた。
「――わたしは当時、まだ下っ端の職員でした。あの聴聞の場に、末席で立ち会っていたのです」
紡樹は息を呑んだ。目の前のこの男が、三年前のあの現場にいた、生き証人だったのだ。
「その方の名は――」
議長が、そこで初めて言葉を止めた。まるで、口にすることそのものを、長年ためらい続けてきたかのように。




