第十五話 眠れる仁王
大岩の裂け目の奥、そこだけ苔むしていない一角があった。まるで、誰かが定期的に手入れをしてきたかのように。
「ここ、だと思う」
紡樹が土を払うと、埋もれていた石段が姿を現した。四人で慎重に土を掘り進めていくと、やがて――ふたつの影が、並んで眠っているのが見えた。
ひとつは、風雨に晒されて摩耗した、小さな仏像。もうひとつは、それを守るように寄り添う、筋骨隆々とした一体の仁王像だった。
「これが、景清様の……」
紡樹は膝をつき、震える手で仏像の表面についた土を払った。指先から伝わる、ひやりとした石の感触。百五十年以上、誰の目にも触れることなく、ただ静かに眠り続けてきた重みが、そこにあった。
仏像の顔立ちは、長年の風雨でほとんど摩耗していた。それでも、微かに残る口元の弧は、どこか慈悲深い笑みを浮かべているようにも見えた。
「紡樹さま、この空気……」稲荷が小さく呟いた。「境ノ杜で感じたものと、似ておるのじゃ」
「習合の残滓が、ここにも眠ってるってこと?」
「おそらくは。……ただし、あの時のような怒りや悲しみは感じぬ。むしろ――」
稲荷が言葉を探すように黙り込んだところで、阿形が緊張した面持ちで割り込んだ。
「なんか、こっちの仁王像の方から、やたら圧を感じるんですけど」
「圧、ですか」吽形が眉をひそめる。「たしかに、並みの由緒力ではなさそうです」
「見事なものじゃな」
いつの間にか追いついてきていたのか、社務所を出るはずのなかった祖父の声が、後ろから聞こえた。杖をつきながらも、ここまで登ってきたらしい。
「じいちゃん、無理して……」
「無理を通してでも見たかったんじゃ。長年、気にかかっておった場所じゃからな。……この仁王像、片方だけとはな」
祖父は仁王像を見つめて呟いた。
「仁王というのはな、本来ふたり一組で山門を守る。阿形は那羅延金剛、吽形は密迹金剛と、それぞれ名がある。狛犬と同じ、阿吽の対じゃ。もとを辿れば、仏の教えを守る護法善神――執金剛神という一柱の神が、ふたつの姿に分かれたものとも言われておる。奈良の東大寺南大門にある仁王像は、鎌倉時代に運慶・快慶という名高い仏師たちが、記録によれば驚くほど短い期間で仕上げたという。ふたりでひと組、守り抜くための姿……じゃが、ここにおるのは一体だけ」
「『密迹』って、どういう意味なんだろう」紡樹が呟いた。
「隠れた足跡、というような意味合いじゃな」祖父が答えた。「表舞台に立つ那羅延に対し、密迹は常に陰から寄り添い、姿を隠して守る役どころだったという説もある。……皮肉なものじゃ。この地で百五十年、まさにその名の通りに、誰にも知られず隠れ続けてきたわけじゃからな」
祖父はさらに続けた。
「仁王像というのは、寺の山門に置かれ、外から入り込もうとする邪なるものを、睨みを利かせて追い払う役目を持つ。仏の教えそのものを守る、いわば最前線の門番じゃ。だが、密迹という名の由来を思えば、本当の役目は、もっと静かなものだったのかもしれん。……誰にも気づかれずとも、そこにあり続けること。それ自体が、ひとつの守りなんじゃろうな」
紡樹は仁王像に目を落とした。閉じられた口元――吽形の特徴だ。
「密迹、なんだ……」
「対の那羅延は、どこにも見当たりませんね」吽形が周囲を見回しながら言った。
「最初からいなかったのか、それとも……」紡樹の声が、自然と小さくなった。
紡樹は朱印帳をそっと開き、仏像と仁王像、両方に向けて掲げた。
「お前もずっと、独りで守ってきたんだな。……もう大丈夫だ。ちゃんと、見つけたから」
朱と墨、ふたつの光が仁王像に降り注ぐ。空間に一瞬、朱肉の印影のようなものが浮かび、静かに溶けて消えた。それに呼応するように、石の肌に細かい亀裂のような紋様が走り、淡い光を帯びて広がっていく。
「……!」
仁王像の目に、赤々とした光が灯った。石の巨体が軋みを上げ、ゆっくりと立ち上がる。
「――ようやく、か!」
雷鳴のような声が、山の斜面に響き渡った。




