第十四話 険しき道を選ぶべし
聴聞まで、あと六日。
朝日の中、紡樹は登山用に借りたスニーカーの紐を締め直していた。境内には、いつもより張り詰めた空気が漂っている。
昨夜、寝る前に祖父からもう一度聞かされた話が、まだ耳に残っていた。「あの時」の前例――両属性を併せ持ったまま聴聞に臨み、そのまま歴史から消えたという誰か。同じ轍を踏まないためにも、できることは全部やっておきたかった。裏山の本尊を見つけ出すことは、そのための、確かな一歩になるはずだった。眠れぬまま迎えた朝は、いつもより空気が澄んで感じられた。
「準備はいいであります?」
阿形が軍手をはめながら聞いてきた。今日は動きやすいジャージ姿だ。隣で吽形が、地図を広げて最終確認をしている。
「地図と由緒の記録は、昨夜のうちに洗い出しておいたのじゃ」稲荷が古びた帳面の写しを掲げた。「裏山には、江戸期まで小さな行場があったという記述が、豊守神社の由緒書きの隅に残っておった」
「行場……修行の場所ってこと?」
「おそらくは。険しい岩場を、修験の真似事のように登った先に、何かを祀っていたのではないか、とわたし――いや、妾は考えておる」
稲荷が言い直すのに、紡樹は思わず笑ってしまった。
「稲荷、まだ時々間違えるよね、その一人称」
「うるさいのじゃ。妾とて慣れぬ物言いに苦労しておるのじゃから」
「まあ、無理もないであります」阿形がにやにやしながら口を挟んだ。「つい最近まで石像だったんですから」
「お前に言われたくないのじゃ。この間も寝ぼけて『俺』って言いかけておったであろうが」
「そそそ、それは聞き間違いであります!」
慌てる阿形を見て、紡樹は思わず声を上げて笑った。緊張していた朝の空気が、少しだけ和らいだ気がした。
祖父は玄関先で三人と紡樹を見送りながら、杖にもたれて言った。
「わしも本当なら一緒に行きたいところじゃが、この歳では足手まといじゃろう。……頼んだぞ」
「任せてください」紡樹は笑って頷いた。「必ず、見つけて帰ってくるから」
「気をつけるのじゃぞ。裏山は、地図にない崖もあるという話じゃ」
「その心配、僕より阿形にした方がいいんじゃない?」
「うっ」阿形が声を詰まらせた。過去に何度か迷子になった前科があるのは、吽形が先週指摘した通りだった。
紡樹はスマホを取り出し、もう一度だけ通知欄を確認した。配信のチャンネル登録者は、この一週間でさらに伸び続けている。コメント欄には「聴聞、応援してます」という言葉まで混じるようになっていた。誰かがどこかで、この一連の出来事を見守ってくれている。その事実だけで、足取りが少し軽くなる気がした。
裏山は、見た目以上に険しかった。
獣道にもならないような斜面を、阿形が先頭で切り拓いていく。「――砕けろ、破魔の一撃であります!」の掛け声とともに、邪魔な枝葉が一気に払われていく。その背中を、紡樹と吽形、稲荷が追った。
「稲荷、方角は合ってる?」
「間違いないのじゃ。由緒書きにあった目印――ふたつに割れた大岩というのが、あちらに見えておる」
一時間ほど登ったところで、確かにそれらしき巨岩が見えてきた。まるで刀で断ち割ったような、不自然な裂け目が入っている。
「あれか……!」
紡樹が駆け寄ろうとした瞬間、足元の土が崩れた。
「危ないであります!」
阿形が咄嗟に腕を掴んで支える。石でできた体は見た目以上に力強く、紡樹の体は軽々と引き戻された。
「ありがとう、阿形」
「これくらい、当然であります」阿形は照れくさそうに鼻の下をこすった。
「阿形、油断していると自分が落ちますよ」吽形が冷静に指摘する。すぐ後で、本当に阿形が別の場所で足を滑らせて悲鳴を上げることになるのだが、それはまた別の話だった。
さらに斜面を登っていくと、朽ちた鳥居の残骸らしきものが道の脇に転がっていた。長年の風雨で原形をほとんど留めていないが、かつてここにも小さな祠があったことを物語っている。
「この辺りは、由緒の気配が濃いのじゃ」稲荷が周囲を警戒しながら言った。「残滓が眠っていても、おかしくない」
言うが早いか、朽ちた鳥居の陰から、黒っぽい靄のようなものがゆらりと立ち上った。以前に出会ったものより、ずっと小さく、弱々しい気配だった。長い年月、誰にも顧みられなかったことが、その頼りなさから伝わってくるようだった。
「――大丈夫、怖くないよ」
紡樹は静かに歩み寄り、朱印帳をそっと差し出した。淡い光が靄を包み込むと、それは抵抗する様子もなく、ゆっくりと解けて夜風に溶けていった。あとには、小さな安堵のような気配だけが残った。
「もう慣れたものですね」吽形が感心したように言った。
「みんなが一緒にいてくれるから、落ち着いてやれるんだと思う」
紡樹は照れくさそうに笑って、再び歩き出した。振り返ると、朽ちた鳥居があった場所に、ほんの一瞬だけ、小さな光の粒が舞うのが見えた気がした。まるで、ありがとう、とでも言うように。
しばらく進むと、道が二手に分かれている場所に出た。片方は緩やかな斜面、もう片方は険しい岩場だ。
「稲荷、地図にはどっちの道が正しいって書いてある?」
「地図には、そこまで詳しくは……。ただ、由緒書きの隅に、こう記されておった。『御縁ある者は、険しき方を選ぶべし』」
「わざと厳しい道を選ばせる、ってこと?」
「修験道では、あえて険しい行を積むことにこそ意味がある、という考え方があるのじゃ」稲荷が説明した。「山伏たちが岩場をよじ登り、滝に打たれるのも、楽な道では得られない気づきを求めてのことだと聞く。景清様も、同じ発想で、この道を選んだのやもしれぬ」
「じゃあ、僕らも険しい方だね」
紡樹が岩場に足をかけると、阿形が慌てて前に出た。
「危ないので、俺が先に行きます!」
「さっき迷子になりかけた人が、よく言ったものですね」吽形が容赦なく突っ込んだ。
「うっ、それとこれとは話が別です!」
賑やかなやり取りを背に、一行は険しい岩場を登り始めた。汗が滲むほどの傾斜だったが、誰ひとり弱音を吐かなかった。




