第十話 語り部衆の流儀
黒漆に沈む社殿の奥、幾つもの影が、互いに目も合わせずに佇んでいた。声を発する者はいない。ただ、それぞれの前に置かれた古い供物――色褪せた着物の切れ端、錆びた鎌、欠けた位牌――に、じっと目を落としているだけだ。線香のかすかな匂いだけが、この場所が今も生きていることを教えていた。
冥の別宮に集う者たちは、「語り部衆」と呼ばれている。歴史から抹殺された悲劇――人柱にされた者、虐げられて滅ぼされた村、祟りとして封じられた恨み――それぞれが、たったひとつの物語を背負い、誰にも邪魔されず、ただ独りそれと向き合い続ける。それが、この場所の流儀だった。何人いるのか、正確な数を知る者すら、結樹を含めていないという噂もある。
松田結樹は、その静寂の中を、足音を立てずに横切っていく。
「――出かけるのか」
低い声が、影のひとつから漏れた。顔の見えない、ただ声だけの誰か。錆びた鎌の前に座り込んだその影は、かつて廃村となったある土地の記憶を、ひとりで背負い続けているのだと、結樹は聞いたことがある。名を「柊」というらしいが、本人がそう名乗ったのを聞いたことは一度もない。
「うん。ちょっと、面白いものを見つけてね」結樹は振り返らずに答えた。「豊守神社――いや、今は『隠れ古宮』か。あそこの由緒、ちゃんと確かめておきたいんだ」
「気をつけろ。あそこは、常宮も本気にし始めている」
「知ってるよ」結樹は肩越しに、薄く笑ってみせた。「だからこそ、僕が先に行く価値がある」
「お前は、いつも一番面倒な物語ばかり拾ってくる」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
結樹はそれ以上答えず、黒い鳥居へと歩み寄った。誰も見送りの言葉をかけない。ここでは、それが当たり前だった。孤独に歴史と向き合う者たちの中で、結樹だけが、時折それを窮屈だと感じることがある。もっとも、その感情の正体に、彼自身まだ気づいていない。
社殿の隅、また別の影が、結樹の背に向かって低く問うた。
「その豊田紡樹とやらが、本当に忌み子だったら、どうする」
「どうもしないよ」結樹は振り返らずに答えた。「僕はただの語り部だ。真実を暴いて、語って、聞かせる。……それだけの役どころさ」
「らしくもない、殊勝な物言いだな」
「そう聞こえた? だったら、僕の演技力もまだまだってことだね」
柊と呼ばれる影が、珍しく小さく笑ったような気配がした。結樹がこの場所で、誰かの反応を引き出せたのは、久しぶりのことだった。
「その顔、忘れないでおくよ」結樹は軽口を返した。
「顔などない。声だけの者だ」
「じゃあ、その気配、かな」
「せいぜい、楽しんでこい」
「言われなくても」
軽い調子でそう返すと、結樹は黒い鳥居へと足を踏み入れた。誰かが小さく息を吐く気配がしたが、それが呆れなのか、あるいは別の何かなのか、結樹には分からなかった。
黒い鳥居をくぐり、結樹の姿が掻き消えた。
数日後、隠れ古宮の境内には、少しずつ日常と呼べるものが戻りつつあった。
「見ろよ紡樹、ついに私服にしました!」
阿形が得意げにその場でくるりと回ってみせる。黒のパーカーにダメージジーンズという、いかにも今どきの高校生のような格好だ。吽形はその隣で、対照的にきっちりとしたシャツを着込んでいる。
「稲荷が選んでくれたんだよ、一昨日」
「妾のセンスに間違いはないのじゃ」稲荷が誇らしげに胸を張った。「いつまでも布切れ姿では、紡樹さまの評判にも関わるのじゃ」
「僕の評判、もうだいぶ変わっちゃったけどね……」
紡樹は苦笑いしながらスマホを取り出した。配信のチャンネル登録者は、この数日で三桁を超えていた。コメント欄には毎晩、由緒や歴史についての質問が並ぶようになっている。
「今夜も配信、やるのじゃ?」稲荷が尋ねた。
「うん。次は……境内の狛犬について、ちゃんと調べて話そうと思って」
阿形と吽形が、揃ってぎょっとした顔をした。
「え、僕らのこと話すの!?」
「面白い題材だと思わない?」紡樹は悪戯っぽく笑った。「そういえば、狛犬の『阿吽』って、そもそも仏教用語なんだよね。梵字の最初と最後の音――『阿』が始まり、『吽』が終わりを表すとされてる。神社の入り口に、本来は仏教由来の概念を持つ像が置かれてるってこと自体、もう神仏習合の生きた証拠なんだよなあ」
「そんな深い話をされると、なんか照れます……」阿形が頭をかいた。
「照れるくらいなら、ちゃんと僕らのルーツ、覚えておいてよ」紡樹はにやりと笑った。
「善処するつもりです」吽形が真顔で敬礼のような仕草をしてみせた。「ただし阿形の分まで僕が覚える羽目にならないことを祈るばかりです」
「うるさいです、俺だって覚えられます!」
「毎日大変ねぇ、紡樹くん」
参道の向こうから、聞き慣れた声がした。あの常連の老婆が、今日も変わらず手を合わせにやって来ていた。
「ばあちゃん、おはよう。……あれ、今日はいつもよりお参りの人、多くない?」
「あなたのおかげよ。配信を見た人が、遠くからも来るようになったの。この間なんて、隣県から来た人もいたわ」
紡樹は驚いて境内を見回した。確かに、いつもより人影が多い。小さいながらも、何かが確実に動き出している。
鳥居の外を通りかかった、あの中堅探索者の同級生が、参拝客の列を見て足を止めた。
「……マジかよ。こんな辺鄙な神社に、こんな人だかり」
彼は何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わずに、そのまま立ち去っていった。紡樹はその背中を見送りながら、少しだけ胸がすく思いがした。
母屋の縁側では、母が洗濯物を畳みながら、その様子をちらちらと窺っていた。
「紡樹、最近、忙しそうね」
「うん、まあ……色々あって」
「無理はしないでね。……でも」母は畳んだタオルを膝の上に置き、少し照れくさそうに続けた。「あなたが誰かに必要とされてるの、母さん、嬉しいのよ」
紡樹は思わず言葉に詰まった。エラーと呼ばれ続けたこの三年間、母がそんなことを口にしたことは一度もなかった。
「稲荷、コンビニでアイス買ってきてくれない? 配信前に、みんなで食べようよ」
「いってらっしゃい……ではなく、いってきます、なのじゃな。妾が参るゆえ、紡樹さまはここで待っていておくれ――」
「久しぶりに僕も外の空気吸いたいし、一緒に行くよ」
紡樹はそう言って、財布片手に境内を出た。




