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日常への逃避と、一秒の喪失

世界が、引き伸ばされた飴細工のように静止する。

 『湿原の番人』が放つ、毒を帯びた鋭い爪が、俺の鼻先数ミリを通り過ぎていった。

 極限の集中が生み出すこの静寂の中で、俺は限界まで鍛え上げた『無銘の錆刀』を振り抜いた。


ガキンッ、と硬質な音を立てて鱗を断ち切る。

 一撃では死なない。二撃、三撃と、トカゲの急所に刃を叩き込み続ける。

 相手が咆哮を上げる前に喉を突き、尾が空気を裂く前に懐に潜り込む。


「……これで、終わりだっ!」


渾身の力で核を貫く。

 トカゲの巨体が湿原の泥の中に沈み、淡い光となって霧散した。

 同時に、刀身へ吸い込まれる強化の粒子。


【『無銘の錆刀』が強化されました(+11)】


「……よし。まずは第一段階だ」


俺はボロボロになった体を引きずり、湿原を後にした。

 『+11』の成果を次の周回へ確実に持ち越し、かつリセットされた元気な肉体で再びトカゲを狩るためには、俺は「死体」というシステムにこの刀を預けなければならない。

 だが、何度経験しても、自らの命を絶つ恐怖だけは慣れることがなかった。


だから俺は、死ぬ前に必ず街へ戻る。


◆ ◆ ◆


「……またあんた、そのパンツ一丁でうろついてるの? いい加減、見慣れてきちゃった自分が嫌だわ」


街の宿屋。カウンターの奥で、アリアが呆れたように鼻を鳴らす。

 彼女と交わす、なんてことのない世間話。

 今日食べたパンの硬さだとか、自警団の訓練が厳しいだとか。そんな「平和で無意味な時間」を脳に流し込まないと、自分の手で自分を殺す恐怖に押し潰されそうになるんだ。


「……あぁ、少し疲れただけだ。アリア、お前は明日、何をするんだ?」


「え? 明日? そうね、天気が良かったら洗濯物を干して、そのあと広場の掃除当番だから……」


彼女の語る「明日」を聞きながら、俺は微笑む。

 俺にとっての明日は、数分後の死の先にある。けれど、アリアの明るい声が、俺の冷え切った魂を現世に繋ぎ止める唯一の錨になっていた。

 

「……ありがとな。また、明日」


「なによ、改まって。……ほら、さっさと寝なさいよ! ちゃんと服着てね!」


彼女に見送られ、俺は宿を出る。

 そして、最もアイテムを回収しやすい街道の脇まで歩き、震える手で自分の首に刃を当てた。


一息に、引き裂く。


熱い血が噴き出し、視界が暗転する。

 翌朝、広場で目覚め、自分の死体から刀を回収する。

 トカゲを狩り、アリアと話し、また刀を預けて死ぬ。

 この地獄のループを数ヶ月繰り返し、刀の強化値は+15、+18……そして、ついに『+20』に達した。


◆ ◆ ◆


悲劇は、あまりにも唐突に、そして間抜けな形で訪れた。


+20になった刀を回収しに行く道中だった。

 俺は街道に落ちていた、何の変哲もない古びた石ころに躓いた。

 反射的に手をついたその瞬間、システムの自動取得判定が、最悪のタイミングで牙を剥いた。


『アイテム:石ころを獲得しました』


「……あ」


その直後、茂みから飛び出してきたスライムの顎が、俺の胴体を真っ二つに食い千切った。

 あまりにも呆気ない、回避不能の事故。

 暗闇の中で、無慈悲な電子音が響く。


【ランダム抽選を開始します……】


止めてくれ。

 今、俺の手元には、数ヶ月の血と汗が染み込んだ『無銘の錆刀+20』と、さっき拾ったばかりの『石ころ』がある。

 確率は、二分の一。

 

 ドラムロールが止まる。

 光り輝いたのは――。


【『石ころ』を次周へ引き継ぎます】

【『無銘の錆刀+20』がロストしました】


「……ぁ」


声にならない悲鳴が、喉の奥で消えた。

 始まりの広場。

 俺の手の中には、一点の曇りもない石ころが一つ。

 そして、森の入り口にある俺の死体からは、あの刀が、数百回の死を乗り越えて鍛え上げた俺の希望が、煙のように消え失せていた。


数ヶ月だ。

 あの一本を、あの重みを守るために、俺はどれだけの痛みに耐えた?

 それが、たった一つの石ころに上書きされて、消えた。


「う……あ、ああああああああっ!!」


広場のど真ん中で、俺は絶叫し、地面を殴りつけた。

 痛覚制限のない拳が割れ、血が流れる。だが、心の穴から溢れ出す絶望に比べれば、そんな痛みは何の気休めにもならない。

 

 もう、無理だ。

 またゼロからやり直すなんて、そんな気力はどこにも残っていない。

 俺は、ただのパンツ一丁の無力な男に戻ってしまった。


◆ ◆ ◆


「……なにしてるのよ、あんた」


宿屋の裏、泥だらけで蹲っていた俺の前に、アリアが立っていた。

 俺の、死んだ魚のような目を見て、彼女は言葉を失う。

 

「……失くしたんだ。全部。……もう、終わりだ」


俺の震える声を聞いて、アリアはいつものように怒鳴らなかった。

 彼女はゆっくりと俺の隣に座り、俺の泥まみれの背中を、その温かい手で強く叩いた。


「……何があったか知らないけど。あんた、まだパンツは履いてるじゃない」


「……は?」


「あんたがいつも言ってる『最高の相棒』なんでしょ? それが残ってるなら、まだゼロじゃないじゃない。あんたが死ぬ気で守ってきたものは、そのたった一つの失敗で消えちゃうような、ちっぽけなものだったの?」


アリアの、少しだけ怒ったような、でも励ますような声。

 彼女は俺のループを知らない。俺が何を失ったのかも理解していない。

 けれど、その言葉の温もりだけは、本物だった。


「……また、明日もここで朝ごはん作りなさいって、大家さんに言われてるの。あんたが来ないと、一人分余っちゃうじゃない。……だから、立ちなさいよ。変態」


「…………」


彼女の肩越しに見えた月が、ほんの少しだけ、滲んで見えた。

 失われた数ヶ月の蓄積。

 けれど、この温もりのある一分一秒だけは、まだロストしていない。


「……あぁ。……そうだな」


俺は、ボロボロになった心で、もう一度だけ立ち上がった。

 右手には、まだ何も掴んでいない。

 けれど、俺にはまだ、こいつ(パンツ)と、明日を語ってくれるアリアがいる。


再び始まる、ゼロからの地獄。

 その一歩目を、俺は初めて一人ではなく踏み出した。

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