永遠の死体と、静止する世界
「――北の湿原に、深緑の鱗を持った大トカゲが棲みついているらしい」
薪小屋を出た俺は、街の住民たちが俺のパンツ一丁の姿を避けて道を開ける中、酒場の裏口でそんな噂を耳にした。
『湿原の番人』。ただの魔物ではない、二つ名を与えられた「ネームドモンスター」だ。
あの『初心者狩りの暴食』を倒した時、俺の刀はシステムによって強化された。
どうやらこの世界では、名を持たない有象無象をいくら狩っても意味がない。強大な力を持つネームドモンスターを討伐した時にのみ、武器に強化値が加算される仕様らしい。
だが、あのスライムをその後何度か狩って検証した結果、一つの絶望的な事実も判明していた。あのスライムの持つ経験値の格では、刀を『+10』までしか強化できなかったのだ。
魔王を倒すためには、さらなる強化が必要だ。そのためには、より強いネームドモンスターを狩るしかない。
今の俺の手元には、十度の死闘を経て限界まで鍛え上げた『無銘の錆刀+10』がある。
これなら行けるはずだ。俺は迷わず、北の湿原へと向かった。
◆ ◆ ◆
結果は、圧倒的な蹂躙だった。
大トカゲの咆哮一つで鼓膜が破れ、平衡感覚を失った。
必死に+10の刀を振るったが、鉄を打つような火花が散るだけで、敵の分厚い鱗には浅い傷しかつかない。
直後、丸太のような巨大な尾が俺の胴体を薙ぎ払った。
「が、はっ……っ!」
肺から全ての空気が押し出され、視界が裏返る。
抗う術もなく、俺の意識はあの冷たい暗闇へと沈んでいった。
◆ ◆ ◆
始まりの広場。噴水の音。
リスポーンした俺の手元には、当然ながら何もない。
あの『無銘の錆刀+10』は、今頃北の湿原で横たわる俺の死体が固く握りしめているはずだ。
焦りはない。
抽選で確定し、一度死体に定着したアイテムは、俺が回収しない限りそこに永遠に残り続ける。システム上の『絶対安全な保管庫』だ。
問題なのは、刀の消失ではない。
「……また、あいつを通るのか」
俺は、街の出口へと向かいながら深いため息をついた。
湿原へ向かう唯一の街道。その森の入り口には、プレイヤーが死ぬたびに必ず初期配置にリスポーンする、あの忌々しいスライムが陣取っている。
刀を持っていた時は、予備動作を見切って一撃で切り伏せられた。
だが、今の俺は丸腰のパンツ一丁だ。
武器がなければ、あいつの巨体を両断することはできない。
刀を回収しに行くための道中に、刀がなければ倒せない敵がいる。
俺は試しに森へ入り、スライムの顎に向かって素手で殴りかかってみた。
結果は、腕ごと食い千切られての惨死だった。
広場に戻された俺は、自分の置かれた状況のバカバカしさに乾いた笑いを漏らした。
武器を取りに行くための武器がない。
このままでは、湿原にある俺の死体まで永遠に辿り着けない。
「あいつを……素手で殺せるようになればいいだけだ」
狂気の思考だった。
初期レベルの肉体で、ネームドモンスターを拳一つで制する。
だが、それができなければ、俺はこの先、何度武器を死体に預けても回収できなくなってしまう。
防具を捨て、全ロスを回避する「パンイチ攻略」を選んだ以上、素手での突破力は絶対に身につけなければならない必須スキルなのだ。
俺は武器屋には目もくれず、真っ白な下着姿のまま、再び森へ向かった。
十回、二十回。
肉を削がれ、骨を砕かれ、俺は何度も死を積み重ねた。
だが、五十回を超えたあたりで、世界が変わり始めた。
スライムが跳ねる。
その瞬間、脳内でカチリと音がした。
世界の解像度が、異常なまでに跳ね上がる。
空気の振動、あいつの筋肉が収縮する音、牙が空気を切り裂く軌道。
全てが、極彩色のスローモーションとなって俺の瞳に焼き付いた。
「……見える」
俺の意識が、肉体の限界を超えて加速している。
一秒が、一分にも等しい密度で流れていく。
後に『クロノスタシス』と名付けることになる、死線の上だけで許された静止した時間。
俺は、迫り来る顎の僅かな隙間――粘液に守られていない、内部の核だけを正確に見据え、全体重を乗せた右拳を叩き込んだ。
ドゴッ!
粘液が爆ぜ、拳が直接核を粉砕する生々しい感触が伝わる。
武器もなく、防具もない。
パンツ一丁の男の拳が、森の死神を完全に打ち砕いたのだ。
手には何の武器も持っていないため、強化の光はどこへも吸い込まれることなく霧散していった。
「……はぁ、はぁ……っ!」
拳の皮が剥け、血が滴る。
だが、不思議と痛みは感じなかった。
俺はそのまま、足を止めることなく走り続けた。
湿原へ。大トカゲの住処へ。
そこにあった、冷たくなった俺の死体。
その右手が、まだ確かな希望――『無銘の錆刀+10』を握りしめている。
「待たせたな、相棒」
俺は死体から刀を引き抜いた。
+10まで強化された刀身が、月明かりを浴びて鋭く、暴力的な輝きを放つ。
目の前には、俺を殺した巨大なトカゲが、再びその鎌首をもたげていた。
「二度目だ。今度は、お前の番だぞ」
俺は刀を構え、止まった世界の中へと、静かに踏み出した。




