噂の拡散と、無意識にこぼれた『本名』
「魔境のハルト伯爵領に行けば、絶対に飢え死にしないらしいぞ!」
「最初の3年は税金ゼロで、しかも石造りの立派な家までタダで貰えるって噂だ……!」
セレーナが世界中の商人たちと『即席邸宅』の取引を行った際、意図的に流したその噂は、またたく間に世界中へ拡散していった。
魔王の脅威が去ったとはいえ、長年の戦乱で故郷を失った難民や、行き場のない訳ありの者たちは数多くいる。最初は「あの魔境に人が住めるわけがない」と疑っていた者たちも、藁にもすがる思いで南の果てを目指し始めた。
そして数日後。
彼らが命からがら魔境の境界線に辿り着き、そこで目にしたのは――毒沼でも凶悪な魔獣でもなく、天を突くような美しい白銀の城壁と、その奥に広がる夢のような大都市だった。
◆ ◆ ◆
「はい、次の方。この居住許可証と、当面の食料を持っていってくれ」
城壁の正門前。
俺は押し寄せる難民たちの受付を、自ら手伝っていた。
領主がそんな雑用をするなとセレーナには怒られたが、一日中執務室で椅子に座っていると、窮屈な服のせいで肩が凝って仕方ないのだ。
今はせめてもの抵抗として、上着を肩に引っかけ、シャツの胸元を大きく開けたラフな格好で外の空気を吸っている。……本当はズボンも脱ぎたいが、さすがに難民たちを怯えさせるわけにはいかないので我慢だ。
「あ、ありがとうございます……っ! 領主様、一生ついていきます!」
「大げさだな。まあ、ゆっくり休んでくれ」
ボロボロの服を着た者たちが、配られた温かいパンとスープを受け取り、涙を流しながら街の中へと入っていく。
その列の最後尾の方に、ひときわ小柄で、頼りない足取りの少女がいることに俺は気づいた。
透き通るような銀髪のショートボブ。長めの前髪の奥から、周囲の大きな音や人混みにひどく怯えたような視線を覗かせている。
その手には、彼女の身長よりも大きな魔道士の杖が、すがりつくように握られていた。
(……リナ)
間違いない。俺が魔王を倒すまでの「最後の半年間」、共に旅をした魔道士の少女だ。
彼女は身寄りがなく、その高い魔力ゆえに魔獣に狙われやすい体質だった。魔王が消えたとはいえ、一人でこんな南の果てまで旅をしてくるのは、どれほど恐ろしく、過酷だったことだろう。
列が進み、俺の数メートル手前までやってきた彼女は、ふと顔を上げた。
そして、受付の机越しに立つ俺の姿――共に旅をした、見覚えのある大きな背中を見た瞬間。
カランッ、と。
彼女の細い手から、魔道士の杖が地面に零れ落ちた。
「……ふぇぇ……っ」
リナの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
彼女はフラフラと引き寄せられるように俺のそばまで歩み寄ると、そのまま膝から崩れ落ち、肩に引っ掛けていた俺の上着の裾を、両手でぎゅっと力強く握りしめた。
「ハ、ハルト、さん……っ。ご、ごめんなさい……っ。私、道中ずっとモンスターの気配が怖くて……大きな音も怖くて……自分が何もできないのが、すごく情けなくて……っ」
彼女は俺の裾に顔を埋め、子供のようにしゃくり上げながら泣きじゃくった。
俺はしゃがみ込み、その震える小さな背中を、大きな手のひらで優しく撫でてやる。
「もう大丈夫だ。ここは俺の街だ。君を脅かすものは、もう何一つないよ。……よく無事で来てくれたな」
「はい……っ、はいっ……。私、ずっとハルトさんに会いたくて……っ。ハルトさんの側にいれば、絶対に安心だって、そう思って……」
彼女はしゃくり上げながら、ふと、憑かれたように虚空を見つめた。
◆ ◆ ◆
――ハルトさんの側にいれば、安心。
それは、最後の半年間を共に過ごした信頼だけではない。
暗い谷底で。燃え盛る森で。絶望的な魔獣の群れの前で。
彼女の魂の奥底には、何度殺されても、何度世界がリセットされても、必ず自分を助けに来てくれた『10万年分の彼の背中』が刻み込まれていた。
いつかの遠い、消え去ったはずのループの記憶。
心が完全に折れかけ、彼女の膝の上で血まみれになって泣き崩れた彼が、一度だけ口にした「帰りたい場所」と「本当の名前」。
リナの口が、無意識に動いた。
「……私、ずっとお側にいます。……『九条 春人』さん……」
ピタリ、と。
俺の手が、リナの背中を撫でるのをやめて硬直した。
「……リナ、今、なんて言った?」
俺は耳を疑った。
九条 春人。それは、俺がこの異世界に召喚される前の、現実世界でのフルネーム(本名)だ。
10万年という途方もないループの中で、心が折れかけた時に何度か彼女たちにこぼしたことはある。だが、魔王を倒したこの「最後の半年間」では、ただの一度も名乗ったことなどないはずだ。
「え……?」
俺に問い返され、リナはハッとして瞬きをした。
そして、自分自身が口にした言葉の意味がまったく理解できないというように、困惑して首を傾げる。
「あ、あれ……? 私、なんで今、そんな変な名前を……? クジョウ、ハルヒト……? 誰かの名前、でしょうか……?」
彼女は本当にわかっていないようだった。
ただ、極限の安心感の中で、魂の奥底に沈んでいた『いつかの記憶の欠片』がポロリとこぼれ落ちただけ。
だが、その一言は、俺の背筋に冷たい汗を流させるには十分すぎるほど重かった。
「……いや、なんでもない。ただの空耳だ。……おかえり、リナ」
「……ふぇぇ。はい……っ、ただいま帰りました、ハルトさん……」
リナは安心しきったように、再び俺の胸元に額をこすりつけた。
セレーナの有能な実務に加え、かつて俺の心を救ってくれた聖なる癒やし手が、このスローライフの街へと合流を果たした。
だが、この時俺はまだ気づいていなかった。
彼女たちが抱える俺への感情が、ただの「半年間の旅の仲間」という枠を遥かに超えた、10万年分の異常な執着を孕み始めていることに。




