究極の開拓宣言と、蘇る記憶の残滓
一晩にして魔境の平野にそびえ立った、豪華絢爛な石造りの街並み。
その中央に位置する、最も大きく立派な領主の館の執務室で、俺はふかふかの革張りの椅子に深く腰掛けていた。
王都の窮屈な服は早々に脱ぎ捨て、ゆったりとしたガウンを羽織っている。ズボンは穿いていない。執務机の下に隠れているから見えないのをいいことに、下半身はパンイチのままだ。やはりこの解放感がないと、頭がうまく働かない。
「ハルト様。お茶を淹れましたわ」
カチャリ、と。
最高級の陶器が触れ合う上品な音と共に、セレーナが淹れたてのアールグレイを机に置いた。芳醇な香りが執務室に広がる。
「ありがとう、セレーナ。助かるよ」
「領主の頭脳を自称したからには、これくらい当然です。それに、これからの作業量を考えれば、休息は今のうちに取っておくべきですわ」
彼女は艶やかな黒髪を揺らしながら、広げられた羊皮紙の束――この領地の今後の運営方針に関する資料――に目を落とした。
「それにしても……ハルト様。この法案、改めて見返しても正気の沙汰とは思えませんわ。……『最初の3年は完全無税』。さらに『家と土地を無償提供』。極めつけは『働けば確実に食える絶対的な生活保障』……。どこのお伽話の理想郷を建国するおつもりですか?」
セレーナは扇子で口元を隠し、呆れたように溜息をつく。
普通に考えれば、領地を一瞬で破綻させる狂った政策だ。税収ゼロでインフラと食料を無料配布するなど、王国の国庫を使っても一年と保たないだろう。
「厳しいか? だが、これくらいぶっ飛んだ条件じゃないと、いくら噂を流してもこんな最果ての魔境に好んで移住してくる奴はいないだろ」
「ええ。普通なら絶対に不可能です。……ですが」
セレーナはそこで言葉を区切り、扇子をパチンと閉じて、俺を真っ直ぐに見つめた。
「貴方が世界中から持ち帰った『維持費ゼロの伝説級インフラ』と、あの巨大な城壁、そして魔王城から回収した莫大な資金。これらをわたくしの計算式に当てはめると、この狂った政策のもとでも領地が破綻することはなく、それどころか『他領から爆発的に人を吸い上げ、急速に大発展していく』という未来しか導き出せないのです。……本当に、恐ろしいお方です」
彼女はふわりと微笑んだ。
計算が合わないこと、理論を超越していることを良しとしないはずの彼女が、俺のデタラメなやり方だけは、どこか楽しそうに受け入れている。
「貴方は、ただ無茶苦茶なだけではない。この政策の根底にあるのは、行き場を失った者たちを絶対に飢えさせないという、途方もない庇護欲ですわ。……わたくしは、貴方のそういう隠れた優しさが……その、嫌いではありませんの」
最後の方は少しだけ照れを隠すように、彼女はアールグレイのカップに口をつけた。
◆ ◆ ◆
ハルトが窓辺へ歩いていき、領地を見下ろしている背中を見つめていたセレーナの脳裏に、突如として鋭い痛みが走った。
(――……っ!?)
目の前の景色が、歪む。
それは、今朝見た光景ではない。
何もない真っ暗な空間。あるいは、血の匂いが充満する凄惨な戦場。
そこには、今の彼よりもずっとボロボロになり、それでも刀を握りしめて立ち続ける彼の後ろ姿があった。
一度ではない。
十回、百回、千回……。
数えきれないほどの回数、彼女はあの背中に守られ、あの背中に救い出されてきた。
『……もう大丈夫だ、セレーナ。俺が、君の未来を全部守ってやるから』
記憶にないはずの言葉。
共有したはずのない、他愛のない日常の会話。
一緒にスープを飲み、魔法の理論を語り合い、時には何の意味もない冗談を言って笑い合った……気が遠くなるほどの歳月を彼と共に過ごしたような、強烈な既視感が彼女を襲う。
(……何、ですの……? この記憶は。わたくし、ハルト様とこれほどの時間を過ごしたことなど……)
心臓の鼓動が早まる。
今のハルトへの信頼や尊敬とは別の、もっともっと深くて、重くて、逃げ場のない愛着が、脳の奥底から溢れ出してくる。
「セレーナ? どうした、顔色が悪いぞ」
ハルトが心配そうに振り返り、彼女の肩に手を置く。
その手の熱を感じた瞬間、セレーナの目から、自分でも理由のわからない涙がひと筋こぼれ落ちた。
「……いえ、なんでもありませんわ。ただ、少しだけ……懐かしい夢を、見ていたような気がして」
セレーナは慌てて扇子で顔を隠し、視線を逸らした。
今のフラッシュバックが何なのか、彼女の知性をもってしても正解は導き出せない。
ただ一つだけ確かなことは、自分の中に芽生えたこの感情が、出会って数週間の男女が抱くような軽いものではないということ。
10万年という時間が刻んだ、魂の刻印。
彼女はそれを、無意識のうちに自覚し始めていた。
「ハルト様。……わたくしをここに置いてくださったこと、改めて感謝いたします。わたくしは、どこまでも貴方についていきますわ。ええ、たとえ世界の理が変わろうとも」
扇子の奥で細められた彼女の瞳には、以前よりもずっと重く、執着に近い情念が宿っていた。
ハルトはその変化にまだ気づかず、「頼りにしてるぜ」と、いつものように無邪気に笑っていた。




