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10万年目の「日常」、そして最期の半年間

「……おはよう、世界」


始まりの広場、噴水の冷たい飛沫を浴びて、俺は目を覚ました。

 主観時間にして10万年。数十万回にも及ぶ死のループを繰り返し、魔王の玉座へ全ての装備を配置し終えた俺は、かつてないほど清々しい、そして胸を締め付けるような寂しさを抱えて、この「最後」の朝の光を見上げていた。


手元には、何もない。

 かつての相棒だった刀も、苦楽を共にした防具も、奇跡の指輪ですらも、あの玉座の間で俺を待っている。今の俺は、真っ白なトランクス一丁の、正真正銘「最弱」の状態だ。

 だが、この半年が過ぎ、魔王を倒して「ゲームクリア」を迎えれば、俺は元の現実世界へと帰ることができる。それは10万年越しの悲願であり――そして、俺の魂を繋ぎ止めてくれた彼女たちとの、永遠の別れを意味していた。

1ヶ月目:スープの温もりと、アリアの「日常」


最初の1ヶ月、俺はただひたすらに、宿屋『黎明の宿』での時間を慈しんだ。

 以前のループなら、目覚めて数分後には四天王の元へ向かっていた。だが今回は違う。俺は毎日、アリアが作る「世界で一番固いパン」と、具材の少ない温かなスープをゆっくりと味わうことから一日を始めた。


「あんた、今日は行かないの? 変態のくせに、最近妙にのんびりしてるじゃない」

 カウンター越しに、アリアが不思議そうに声をかけてくる。

「ああ。急ぐ必要がなくなったからな」

 俺が微笑むと、アリアは「ふんっ」と鼻を鳴らして、わざとらしく雑巾がけを始めた。


この1ヶ月、俺はアリアの手伝いをした。薪を割り、掃除をし、時には市場への買い物に付き合った。

 10万年の間、俺にとってアリアは「復活ポイントのNPC」に過ぎなかった時期もあった。だが、こうして隣を歩けば、彼女が市場の果物屋の親父と仲が良いことや、夕暮れ時の街並みを見て少しだけ寂しそうな顔をすることを知った。

「アリア。あんたのスープの味、10万年経っても忘れないよ」

「10万年ってなによ、大げさね。……でも、そんなに気に入ったなら、明日も作ってあげるわよ」

 彼女の不器用な優しさが、俺の心に染み渡る。この半年間が終われば、彼女の中から俺の記憶は消えるだろう。それでもいい。俺が覚えている。彼女が俺を人間として扱ってくれた、この温かな日々を。

3ヶ月目:星空の下で、リナと誓った「未来」


2ヶ月が過ぎ、季節は移り変わる。

 西の『嘆きの谷』で救い出した聖女リナ。彼女は、かつて俺が死に戻るたびに、見ず知らずの俺のために涙を流し、祈ってくれた。

 俺は彼女を、かつてのように安全な場所へ預けるのではなく、共に多くの場所を旅した。魔王軍のいない、美しい花畑や、静かな湖畔。


「ハルトさん、見てください! こんなに綺麗な色の花があるんですね……っ!」

 リナは少女のように目を輝かせ、俺の手を握る。その温かな感触に、俺は自分がこれまでどれほど多くの「美しさ」を見落としてきたかを痛感した。

 夜、焚き火を囲みながら、リナは静かに語り始めた。

「私、魔王がいなくなったら……この世界がどうなるのか、少しだけ怖いんです。でも、ハルトさんがそばにいてくれるなら、どんな未来でも歩いていける気がします」


彼女の純粋な信頼。その重さに、胸が潰れそうになる。俺は彼女の未来を守るために魔王を倒すが、その瞬間に彼女の隣にはいられなくなるのだ。

「リナ。君の祈りは、俺の救いだった」

「え……?」

「どんなに暗い場所にいても、君が祈ってくれると思うだけで、俺は歩き続けられたんだ。……君が迎えるこれからの未来に、たくさんの光がありますように」

 俺は彼女の額にそっと触れた。リナは頬を染めて微笑む。

 リナ、俺がいなくなった後の世界で、君が誰よりも幸せになってくれること。それが俺の、最後の我儘だ。

5ヶ月目:セレーナの「真理」と、交わらない世界


5ヶ月目、俺は南の洞窟から救い出した魔導師セレーナと、魔術の理論ではなく、世界の在り方について語り合った。

 彼女は、この世界の住人の中で唯一、俺の「違和感」に気づき始めていた。

「ハルト様……貴方の瞳には、この半年で経験した以上の、果てしない歴史が刻まれていますわ。わたくしの計算式では、貴方の存在そのものが、この世界の確率論から逸脱しているのです」


月明かりの下、彼女は古びた羊皮紙を置き、俺をじっと見つめた。

「……もし、この世界が貴方にとっての終着点ではないのなら。貴方は、どこへ帰るのですか?」

 セレーナの鋭い指摘に、俺は少しだけ言葉を詰まらせた。

「……たぶん、ここよりもずっと不便で、リセットもきかない、平凡な世界だ」

「そうですか。……貴方が、そこへ帰るために果てしない歴史を刻んだのだとしたら、わたくしに止める権利はありませんわね」


彼女は悲しそうに、けれど誇らしげに微笑んだ。

「ハルト様。わたくしたちが、貴方の『記録』ではなく、『記憶』の一部として残れるのであれば……これ以上の喜びはありません」

 彼女の知性は、俺が「異邦人」であることを悟っていた。それでも彼女は、俺の背中を押してくれた。

「ありがとう、セレーナ。お前の知恵がなければ、俺はとっくに自分を見失っていた」

 俺たちは、来るべき魔王の出現に備え、静かに最後の手順を語り合った。彼女の羅針盤は、いつだって俺を正しい道へ導いてくれた。

6ヶ月目:そして、終わりの始まり


ついに、約束の半年の終わりが近づいていた。

 街の空は禍々しい暗雲に覆われ、魔王の居城が姿を現そうとしている。

 俺は、最後の日を宿屋で過ごした。


「……明日、行ってくるよ、アリア」

 俺がそう告げると、アリアは手を止めて俺をじっと見つめた。

「……そう。戻ってくるんでしょ?」

「……ああ。最高の『クリア』をしてくるよ」

 嘘だった。俺は戻らない。だが、今の彼女にそれを言う必要はない。俺は彼女の頭を少し強引に撫でた。

「あんた、最後まで失礼な変態ね……。ほら、これ持ってきなさい」

 アリアが渡してくれたのは、旅の食料。いつもよりずっと柔らかい、特別なパンだった。


宿の門を出ると、リナとセレーナが待っていた。

「ハルトさん、信じています……っ。貴方が、私たちの光であることを!」

「計算結果は『勝利』以外にありませんわ。……どうか、貴方の願う道を」


俺は二人に背を向け、手を振った。

 涙は出なかった。10万年かけて、俺はこの瞬間のために心を鍛えてきたのだ。

 だが、歩き出す足が、かつてないほど重い。一歩進むたびに、彼女たちとの思い出が足元に零れ落ちていくような気がした。


四天王の塔は、すでに俺の通過儀礼に過ぎない。

 10万年の技術を叩き込み、俺は一切の怪我をすることなく、その全てを瞬殺で葬り去った。

 もはや、俺にとっての脅威はシステム的な死ではない。彼女たちと過ごした時間を「なかったこと」にするという、現実の重みだった。


◆ ◆ ◆


魔王城、最深部。

 10万年。数十万回の死。

 そのすべての果てにある、最終決戦の地。


玉座の間へと続く、重厚な扉の前に俺は立っていた。

 この扉を、俺はかつて何度開けただろう。ある時は死に物狂いで、ある時は作業的に。

 だが、今、この扉にかけた手は、かつてないほど震えていた。


扉の向こうには、俺が10万年かけて積み上げた、俺自身の「抜け殻」たちが待っている。

 +99の刀、+99の防具、そして奇跡の指輪。

 それらを回収し、俺が「完全体」となった時、この半年間の穏やかな夢は終わる。


「……待たせたな」


俺は、真っ白なトランクス一枚の胸を張り、アリアのパンの匂いを、リナの祈りを、セレーナの導きを、最後にもう一度だけ反芻した。


「……行こう。俺の、10万年の終着点へ」


俺は静かに、そして力強く、運命の扉を押し開けた。

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