死の味と、消える鉄
二度目の「始まりの広場」。
噴水の水音と、どこまでも澄み渡った青空。先ほど俺を無残に食い殺したあの地獄が嘘だったかのような、穏やかな光景だ。
だが、俺の格好は穏やかじゃない。
先ほど選んだはずの皮の鎧は消え失せ、手元には武器一振りの感触もない。
全身を包むのは、相変わらず白く輝く初期装備の下着のみ。
「……装備が、ない」
俺は震える手で、自分の体を確かめた。
鎧がない。服もない。
だが、目の前の視界には、無機質なウィンドウが静かに浮かび上がっている。
【『初心者用の剣』を次周へ引き継ぎます】
【『皮の鎧』がロストしました】
「引き継ぐ……? どこにだよ。手元には何もないぞ」
俺は広場を見渡した。
石畳の上にも、噴水の縁にも、剣らしきものは落ちていない。
ローグライト系のゲームでは、死ねばアイテムの大部分を失い、一部だけが次の周回に引き継がれる。
だが、その引き継がれたアイテムは、通常、リスポーン地点に用意されているものだ。
嫌な予感が、背筋を駆け抜けた。
この、不自然なほどの「リアルさ」を持つ世界。
痛みが本物で、死の恐怖が本物で、温度も風も本物なら。
「……まさか」
俺は、自分が死んだあの森の方角を見つめた。
あの水色のスライムに噛み殺された、あの場所。
アイテムは、そこに残されている。
噛み砕かれた俺の、あの生々しい「死体」と共に。
「冗談だろ……。あいつのところに戻れって言うのか? 丸腰で?」
喉の奥が、ヒリリと焼けるように痛む。
気管が潰された時の、あの窒息するような苦しさと、血の味が蘇る。
行きたくない。絶対に、行きたくない。
あの恐怖を、もう一度味わうなんて、正気じゃいられない。
だが、この剣を回収しなければ、俺はレベル1の丸腰だ。拳でモンスターを殴り殺せるほど、この世界は甘くない。
進むためには、取りに戻るしかない。
「……クソ。やるしかないんだ。これはゲームだ。あいつはただのデータだ」
自分に言い聞かせる声が、惨めに震える。
俺は逃げるように街の門を潜った。
誰もいない街道を、森に向かって走る。
鎧がない分、体は軽い。風が全身を吹き抜け、あまりにも無防備な自分の姿に心細さが募る。
◆ ◆ ◆
森の入り口が近づくにつれ、足が自然と遅くなった。
木々の隙間から差し込む光が、あいつの牙に見えてくる。
俺はパンツのゴムを固く握りしめ、意を決して森へ足を踏み入れた。
あいつがいた、あの場所。
茂みを掻き分け、静かに、慎重に近づく。
「……!」
息が止まった。
そこには、俺がいた。
正確には、俺の『死体』があった。
草の上に、仰向けに倒れた俺。
喉は食い破られ、周囲の草は黒ずんだ血に染まっている。
ゲームのグラフィックじゃない。蒼白な顔、焦点の合わない瞳、固く結ばれた唇。それは、紛れもなく「俺という人間」の、無残な終わりの姿だった。
さらに俺を絶望させたのは、その死体の異様さだった。
死ぬ直前まで着ていたはずの皮の鎧は、影も形も残っていない。システムによって「ロスト」したアイテムは、死体からも完全に存在を抹消されていたのだ。
血まみれのパンツ一丁で転がる、自分の死体。
そして、その死体の右手が、一本の剣を固く握りしめていた。
鈍い光を放つ、ただの鉄の塊。先ほど、あいつの粘液に弾かれ、俺を守り切れなかった頼りない初期装備。
希望なんて微塵も湧かない。ただ、今の俺には「これしかない」のだ。
「……離せよ、俺」
自分の死体に近づき、その冷たくなった右手から剣を引き抜こうとした。
死後硬直が始まっているのか、手は剣を離さない。
俺は、かつての自分の指を一本ずつ、無理やりこじ開けた。
その感触が、あまりにも生々しくて、気が狂いそうになる。
剣を奪い取った瞬間、背後で草が擦れる音がした。
ドシュッ。
「――っ!?」
振り返る暇もなかった。
茂みの奥から、あいつが……あの水色の悪魔が、姿を現していた。
既にスライムの擬態は解かれ、巨大な牙の生えた顎が、俺を睨みつけている。
「……待ち伏せ、かよ!」
俺は剣を構えた。
恐怖で手が震える。この剣で勝てる気なんて全くしない。さっきは、この剣を構えたままあっけなく殺されたのだ。
逃げようにも、足がすくんで動かない。
あいつの巨体が、バネのように跳ねた。
俺は半ば自暴自棄に、目を瞑って剣を振り回した。
ガキンッ!
「あがっ……!?」
鈍い破砕音。
剣が折れた音ではない。俺の右腕の骨が、あいつの体当たりで根本からへし折られた音だった。
折れた腕から剣がすっぽ抜け、宙を舞う。
あいつは俺を押し倒し、俺の喉元へその巨大な顎を押し当てた。
抵抗すら、許されない。
ただの初期剣なんて、何の気休めにもならなかった。
俺の視界が、そいつの胃袋の暗闇に飲み込まれていく。
パキパキ、と。
再び、俺自身の骨が砕ける音が聞こえた。
◆ ◆ ◆
【あなたは死亡しました】
三度目の暗闇。
今回は、抽選のドラムロールすら聞こえない。
ただ、無慈悲なシステムメッセージだけが流れる。
【抽選対象の装備品が存在しません】
【全アイテムがロストしました】
「……あ。ああああああああっ!!」
意識が戻った瞬間、俺は「始まりの広場」で絶叫していた。
通行人が一斉に足を止め、気味の悪いものを見る目で俺を凝視する。
剣が消えた。
服も、鎧も、何もかも。
回収した直後に死んだため、引き継ぎ判定すら行われず、完全に失われた。
俺の手元には、もう一振りの武器すら残っていない。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
自分の手を見る。震えが止まらない。
ただ一つ、変わらずそこにあるのは、真っ白な初期装備の下着だけ。
こいつだけは、どれだけ無惨に殺されても、決して壊れず、俺にへばりついている。
「……死んだ場所にアイテムが残る。壊れてしまえば、全てを失う」
俺は、噴水の縁に縋り付いて泣いた。
このルールの残酷さに、吐き気が止まらない。
次に森へ戻れば、そこには二つの「自分の死体」が転がっているだけだ。武器すら持たない、惨めな丸腰の死体が。
この美しすぎる地獄に、俺は独りぼっちだ。
死ぬたびに、俺の精神が確実に削り取られていく音がした。




