あまりにも、風が心地よすぎる
意識が浮上した瞬間、鼻腔をくすぐったのは「草の匂い」だった。
「……ん」
ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、吸い込まれるように高い青空と、どこまでも白い石畳の広場だった。
体を起こすと、肌に触れる空気の質感が妙に生々しい。湿り気を帯びた風が、俺の頬を撫でて通り過ぎていく。
「……ここが、『エターナル・ローグ』か」
立ち上がり、自分の姿を見て愕然とした。
装備も何もない。ただの白いトランクス一丁。
だが、このパンツだけは、妙に履き心地がいい。まるで肌の一部のように馴染んでいる。こいつが後に10万年連れ添う『最高の相棒』になるとは、この時の俺は微塵も思っていなかった。
俺は周囲を見渡した。
広場は静まり返っている。噴水の水音だけが、やけに大きく響いていた。
「……おいおい、サービス開始直後だろ? 随分と静かだな」
普通、この手の超大作VRMMOの初日なら、ログインしたてのプレイヤーがわんさかいて、処理落ち寸前のお祭り騒ぎになっているはずだ。
だが、誰もいない。
「……あぁ、なるほど。エリアごとに人数を制限する『インスタンス制』か。俺が一番乗り(トップバッター)ってわけか。」
俺は一人で納得して、口角を上げた。
誰もいないのは、俺が最速で処理を終えたから。そう思い込むことにした。
目の前に、半透明のシステムウィンドウが静かに浮かび上がる。
『――初期装備を選択してください』
・剣士セット(初心者用の剣・皮の鎧)
・魔法使いセット(初心者用の杖・ローブ)
・弓使いセット(初心者用の弓・軽装の服)
「ローグライトの基本は近接だろ」
迷わず『剣士セット』を選択する。
その瞬間、光の粒が集まり、俺の体に簡素な皮の鎧が装着され、腰に一本の鉄剣が現れた。
「……すげぇな、今の演出」
俺は剣を抜き、軽く振ってみた。
重い。刀身の重みが、ずしりと腕に伝わってくる。
感触があまりにもリアルだ。最新のVR技術は、ここまで「物体の重さ」を再現できるのか。
俺は弾むような足取りで、広場を抜けて街の外へと向かった。
◆ ◆ ◆
街を出てすぐの街道を、俺は森に向かって歩いていた。
歩くたびに、足の裏に伝わる土の弾力。
木々の葉が擦れ合う、ざわざわという音。
そして何より、太陽の光。
「……熱いな」
思わず額の汗を拭う。
VRにおける温度感覚は、通常なら設定で制限されているはずだ。
不快感を避けるために、冷たさや熱さは「記号」として処理されるのが常識。だが、この世界は違う。
肌を焼く日差しのじりじりとした熱気も、森から流れてくる涼やかな空気も、全てが「本物」としか思えない精度で俺に訴えかけてくる。
「最近の技術は、ここまで踏み込むのかよ。没入感のレベルが違いすぎる」
俺は期待に胸を膨らませ、森の入り口へと足を踏み入れた。
狙いは、ローグライトの定番である低レベルモンスター。まずはレベルを一つ上げ、感覚を掴む。それが定石だ。
いた。
茂みの奥で、水色のぷるぷるした体が揺れている。
スライムだ。
ファンタジーの代名詞。最初の経験値。
「悪いな。俺の最初の糧になってくれ」
俺は剣を引き抜き、静かに距離を詰めた。
スライムは、こちらに気づいていない。
俺は大きく踏み込み、上段から一気に剣を振り下ろした。
ドシュッ。
手応えがあった。
だが、それは柔らかいゼリーを斬る感触ではなかった。
粘り気のある肉に、刃が食い込むような……生々しく、重苦しい抵抗感。
「なっ……!?」
その瞬間、スライムの体面がぐにゃりと歪んだ。
裂け目が広がり、中から血の匂いが漂ってくる。
そして――。
ガハッ!
スライムの体内から、巨大な「牙」を備えた顎が飛び出してきた。
それはスライムなどではなかった。獲物を誘き寄せるために姿を模倣した、悪意の塊。
俺の右肩を、その凶悪な牙が深々と貫いた。
「――っ!? ああああああああああああ!!」
激痛。
脳を直接焼かれるような、凄まじい衝撃。
肩から鮮血が噴き出し、視界がチカチカと明滅する。
痛い。熱い。
VRの「痛み」じゃない。
これは、本当に肉を裂かれ、骨を砕かれた時の痛みだ。
「は、ぁ……嘘だろ、設定、ミスじゃ……っ!」
逃げようとしたが、足が震えて動かない。
死の恐怖。
本能が、全身が、逃げろと、拒絶しろと叫んでいる。
顎が、次は俺の喉を狙って大きく開かれた。
バクンッ。
首筋に牙が食い込み、気管が潰される音が聞こえた。
熱い血が溢れ出し、急速に体温が奪われていく。
……あぁ、これ。
これ、本当に死ぬやつだ。
意識が急速に、闇の底へと吸い込まれていった。
◆ ◆ ◆
【あなたは死亡しました】
暗闇の中で、無機質なウィンドウが浮かび上がる。
先ほどまでの激痛が、嘘のように消えていた。
だが、心臓の鼓動はまだ速いままだ。
死ぬ瞬間の絶望感と、あのリアルな苦痛が、脳裏に焼き付いて離れない。
【ランダム抽選を開始します……】
電子音が響き、抽選が始まった。
何が起きているのか分からない。
ただ、画面には二つのアイコンが並んでいた。
『皮の鎧』と『初心者用の剣』。
なお、下着は「初期配布品」のため、抽選リストには載っていない。
ルーレットが回り、一つのアイコンが光り輝く。
【『初心者用の剣』を次周へ引き継ぎます】
【『皮の鎧』がロストしました】
再始動のカウントダウンが始まる。
「……なんだよ、これ。なんなんだよ、これ!!」
叫び声は音にならない。
3、2、1――。
目を開けると、そこは再び「黎明の広場」だった。
青い空。噴水の音。
そして俺の姿は――。
「……パンツ一丁。それに、剣だけ?」
鎧が消え、服が消え、半裸の腰に剣だけがぶら下がっている。
広場は、相変わらず静まり返っていた。
さっきと同じ場所。同じ風景。
だが、俺の心はもう、さっきと同じではいられなかった。
「……痛みが、本物だった……。あいつに食われた感覚も、全部……」
俺は震える手で、自分の右肩に触れた。
傷跡はない。
だが、あの鋭い牙が肉を貫いた「感触」が、まだ生々しく残っている。
ふと、広場の隅にある掲示板が目に入った。
ログインしているプレイヤーの名前が表示されるはずのボード。
そこには、たった一つの名前だけが刻まれていた。
――【Haruto】
「……他には、誰もいないのか?」
その問いに答える者はいない。
俺は一人。
最強の剣を、最強のパンツ。
そして、この先10万年続く地獄の、まだ一歩目に立ったばかりだった。




