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折れかけた心と、三つの灯火

北塔の魔法賢者アルス。

 刀の時は「一秒未満の詠唱の隙」に神速で踏み込み、首を落とすだけで終わっていた。


だが、素手では違う。

 神速で踏み込み、渾身の拳を顔面に叩き込んでも、アルスは即死しない。脳を揺らされても無意識下で発動する『緊急防壁カウンター』や『瞬間転移』によって距離を取られ、即座に極大魔法の報復が飛んでくる。


氷結で四肢を砕かれ、業火で皮膚を焼かれ、雷撃で神経を炭化される。

 接近しては殺され、殴っては殺され、あと一歩まで追い詰めては殺される。


「……あぁ、クソ……ッ!」


始まりの広場。

 何度目かもわからないリスタートで、俺は噴水の縁に崩れ落ちた。

 痛覚はすでにデータ化して処理しているはずなのに、心が、魂そのものが悲鳴を上げている。

 見えない壁を素手で殴り続けているような、終わりのない徒労感。このまま永遠に、俺はこの地獄から抜け出せないのではないかという恐怖。


「……もう、無理かもな……」


ポツリとこぼれた弱音。

 俺は兜を外したまま、重い足取りで『初日』のルーティーンをこなし、夜の宿屋へと帰還した。


◆ ◆ ◆


深夜の食堂。

 ランプの薄暗い灯りの中、俺はテーブルに突っ伏していた。食事にも手をつけていない。


「ハルト様……」


ふわりと、インクと羊皮紙の匂いがした。セレーナだった。

 彼女は俺の隣に座ると、冷え切った俺の手に、そっと自分の手を重ねた。


「わたくしの計算では追いつかない、果てしない絶望の中で戦っておられるのですね。……何も聞けとは言いません。ですが、どうか一人で全てを抱え込まないでくださいませ。貴方の背中を預かるために、わたくしのこの頭脳はあるのですから」


セレーナの理知的で、けれどひどく不器用な優しさが、俺の強張った神経を少しだけ解きほぐす。


「……セレーナ」

「無理に笑わなくていいんです、ハルトさん」


反対側の席に、いつの間にかリナが座っていた。

 彼女は、俺のもう片方の傷だらけの手を両手で優しく包み込み、ボロボロと涙をこぼした。


「ハルトさんの手が、こんなに震えています……。私たちを助けるために、どれだけの痛みを……っ。貴方は神様じゃありません、ただの人間です。弱音を吐いたって、立ち止まったって、誰も貴方を責めたりしません……!」


リナの盲目的で、見返りを求めない純粋な祈りのような言葉。

 俺の心に張り詰めていた糸が、プツリと音を立てて切れそうになった。

 泣きたい。このまま全部投げ出してしまいたい。


コトン、と。

 俺の目の前に、湯気を立てる温かいスープと、いつもの固いパンが置かれた。


「ほら、食べなさい」


腕組みをしたアリアが、呆れたような、でもひどく優しい顔で俺を見下ろしていた。


「あんた、また一人でバカみたいに無理してんでしょ。顔を見ればわかるわよ、今にも泣きそうな迷子の子供みたいな顔してる」


「……アリア」


「いい? 世界がどうなろうと、魔王がどれだけ強かろうと、あんたがちゃんとご飯を食べて、温かいベッドで寝る以上の優先事項なんてないのよ。……どうしても辛いなら、ずっとこの宿にいればいいじゃない」


アリアは俺の頭に手を伸ばし、ガシガシと乱暴に、けれどたまらなく温かい手つきで髪を撫でた。


「でも、どうせあんたは行くんでしょ? だから私は、あんたがちゃんと立てるように、こうしてご飯を作るのよ。……食べなさい、春人」


今日会ったばかりのはずの彼女が、俺の本当の名前を知っているはずもない。

 ただの聞き間違いか、あるいは俺の幻聴か。

 それでも、俺の目からはボロボロと大粒の涙が溢れ出していた。


「……あぁ。……美味いな」


スープの温かさが、三人の体温が、俺の死に絶えそうだった魂に火を灯していく。


俺が救い出し、守りたいと思ったのは、この温かさだ。

 記憶がリセットされようと、システムがどれほど理不尽だろうと、彼女たちの根底にあるこの『優しさ』は絶対に変わらない。


俺は涙を拭い、パンを力強くかじり切った。


「ありがとう。……明日には、必ずあいつの首を取る」


折れかけた心は、三つの灯火によって再び鍛え直された。

 次なる死地へ向かうため、俺は兜を手に取り、静かに立ち上がった。

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