素手の絶望と、針の穴を通す死闘
『幻惑の兜』を+60まで鍛え上げる道のりは、思いのほかスムーズだった。
南の森のインソムニア、廃都の灰色の古龍。
こいつら相手なら、極め尽くした俺の『神速』と『浸透勁』による素手の打撃でも、数発叩き込めば十分に致命傷を与えられた。
防御力は相変わらずゼロ(頭部以外は真っ白なトランクス一枚)だが、相手の攻撃モーションはすでに数万回の死で完璧に見切っている。当たらなければ、どうということはない。
そう高を括っていた俺の慢心は、魔王城・東塔にて無惨に打ち砕かれることになった。
「……硬い。いや、俺の攻撃が軽すぎるんだ」
四天王の一角、影刃のゼクス。
かつて俺が、その軌道を見切るためだけに一万回の死を捧げた暗殺者。
+60の刀を持っていた時は、見切りさえすれば『一刀両断』で終わっていた相手だ。
だが、素手は違う。
『クロノスタシス』の中でゼクスの死角に潜り込み、渾身の右ストレートを顎の先端に叩き込んだというのに、ゼクスは僅かに顔を歪めただけで、すぐに体勢を立て直して反撃の刃を繰り出してきた。
「なっ……!?」
決定打に欠ける。
これまでの俺の強さは、あくまで『+99まで育ち切った刀の異常な火力』が前提だったのだ。
丸腰の拳では、四天王の分厚い生命力を削り切るのに、途方もない手数を要求される。
シュッ、と。
ゼクスが放った反撃の投げナイフが、俺の腹部を掠めた。
兜で守られているのは頭だけ。腹は相変わらず無防備なパンイチだ。
「が、はっ……!!」
たった一発の軽い牽制。それだけで、俺の内臓は完全に破壊され、視界が暗転した。
【あなたは死亡しました】
◆ ◆ ◆
そこから始まったのは、刀の時とは次元の違う、真の地獄だった。
ゼクスの攻撃は、相変わらず掠っただけで即死級。
俺が勝つためには、ゼクスの神速の攻撃を『完全に、ただの一度も被弾することなく全て躱し切り』、かつ『何百発、何千発という素手の打撃を、急所に寸分の狂いもなく叩き込み続ける』という、針の穴を通すような精密な立ち回りが求められた。
集中力がコンマ一秒でも途切れれば、死。
打ち込みの角度が数ミリずれれば、反撃を受けて、死。
「……あぁぁぁぁっ!!」
始まりの広場。
俺は何度目かもわからないリスタートで、噴水の冷たい水面に拳を叩きつけた。
勝てない。
刀を持っていた時は、数万回の死で『一度の隙』を見つければよかった。
だが今は、その隙を『数千回連続で突き続けなければならない』のだ。
気が狂いそうだった。セレーナの計算で弾き出された最適解の動きを、ただひたすらに、機械のように、何時間もノーミスで実行し続ける拷問。
一万回。十万回。五十万回……。
俺の死体が、東塔の暗闇を埋め尽くしていく。
すでに、この『ゼクスを素手で一度倒す』という工程だけで、あの刀を+99にするまでに費やした全死亡回数を優に超えているのではないか。
果てしない主観時間の中で、俺の心は摩耗し、感情は削れ落ち、ただひたすらに『ゼクスを殴り殺すための暴力の演算装置』へと成り果てていた。
◆ ◆ ◆
――そして。
永遠とも思える死の連鎖の果てに。
東塔の最上階。
ゼクスの放った最後の一撃を、首の皮一枚で躱した俺は、その勢いのまま、ゼクスの胸の中心――心臓の真上へと、これまでの数十万回の死の重みを込めた手刀を突き立てた。
ゴバァッ!!
肋骨を砕き、心臓を直接握り潰す感触。
ゼクスの瞳から光が消え、その体がゆっくりと崩れ落ちる。
【『幻惑の兜』が強化されました(+61)】
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
俺は、血まみれのパンイチ姿に重い兜を被ったまま、その場に仰向けに倒れ込んだ。
勝った。
素手で、四天王の一角を、ついに崩したのだ。
だが、安堵は一瞬で消え去った。
視界の端で光る『+61』という数字。
次の標的である魔法賢者へ挑む目安、これを+70にするためには、今のこの「奇跡のようなノーミスの数千連撃」を、あと9回も繰り返さなければならない。
そしてその先には、魔法賢者アルス、氷の龍将グラキエス、そしてあの物理無効の不倒の騎士という、それぞれ全く別次元の絶望を「素手」で突破していく地獄が手ぐすね引いて待っているのだ。
「……ふふっ、あはははははっ!!」
東塔の暗闇に、俺の乾いた笑い声が響き渡る。
絶望が深すぎて、もはや笑うしかなかった。
俺のロードマップは、あまりにも甘すぎた。この素手縛りの地獄は、俺の魂を真っ黒に焦がすには十分すぎるほど、長く、過酷なものだった。




