賢者の絶望と、不可避の神速
東塔の暗殺者ゼクス。
かつて一万回の死を強要されたその影の支配者も、完全に軌道を見切った今の俺にとっては、ただの経験値の供給源でしかなかった。
『初日』から始まり、セレーナたちを救出し、夜はゼクスを狩り、仲間と笑い合ってから自分の首を裂く。
記憶を引き継ぐのは俺だけ。永遠に繰り返される「初めまして」の切なさを心の奥底に封じ込め、俺はただ機械のように刀を振るい続けた。
一回の討伐につき、確定でプラス1の強化値。
時折、ゼクスのイレギュラーな動きに対応しきれず殺される失敗を含めても、数十回のループで目標値には到達した。
ついに刀は『+70』という、かつての初期装備の面影を全く残さない、恐るべき神魔の刃へと至った。
「……次は、北塔か」
次なる標的は、四天王が一人『絶空の賢者アルス』。
あらゆる魔法を極め、近づくことすら許さないという大魔導師だ。
◆ ◆ ◆
結論から言えば、初見からの数百回は、ただの「蹂躙」だった。
北塔の扉を開けた瞬間、視界が真っ白に染まる。
炎、氷、雷、そして空間そのものを削り取る極大の範囲魔法。
防御力ゼロのパンツ一丁の体は、アルスの姿を視認する前に消し炭にされ、凍らされ、跡形もなく消し飛ばされた。
「……ハルトさん、どうしたんですか? そんなに難しい顔をして」
時間がリセットされた『初日』の夜。
宿屋の食堂で、リナが心配そうに覗き込んでくる。彼女にとっては、今日ゴブリンから助けてもらったばかりの恩人との、初めての会話だ。
「……リナ。大魔導師クラスの魔法を破るには、どうすればいい?」
俺の問いに、リナは少し驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情で考え込んだ。
「魔法の規模にもよりますが……どれほど強大な魔法でも、必ず『詠唱』と『魔力圧縮』の時間が必要です。熟練の魔導師ならそれを数秒、いえ、一秒未満にまで短縮できますが、ゼロにはなりません」
「一秒未満の、隙……」
「はい。ですから、もし打ち破るとすれば……相手が魔力を圧縮し終え、魔法が発動するそのコンマ数秒の間に、相手の意識を断ち切るほどの物理的衝撃を与えるしか……。でも、そんな神速、人間にできるはずが……」
「……ありがとう、リナ。助かった」
俺は小さく笑い、彼女の頭を撫でた。
リナは顔を真っ赤にして俯いたが、俺の頭の中はすでに、アルスを殺すための計算で埋め尽くされていた。
一秒未満の詠唱を、さらに上回る速度で踏み込み、斬る。
+70の刀の威力は足りている。足りないのは、俺の肉体の『速度』だ。
◆ ◆ ◆
それからのループは、これまでとは全く異なるものになった。
俺は、魔王が復活して世界が滅びる『半年後』のタイムリミットギリギリまで、時間をリセットせずに生きることにした。
半年という時間をフルに使い、ただひたすらに己の肉体を鍛え、刀を振り、アルスの詠唱のタイミングを体に叩き込むためだ。
毎日毎日、血反吐を吐くような鍛錬。
アリアが呆れ、リナが心配し、セレーナが効率を計算する。その日常の中で、俺は己の筋肉の繊維一本一本に至るまで、全てを『前へ踏み出す速度』だけのために最適化していった。
そして、半年後。
空が魔王の復活を告げる禍々しい赤に染まる頃、俺は北塔の扉の前に立っていた。
失敗すれば世界が終わる。だが、どうせ死ねば初日に戻るのだ。プレッシャーなどない。
扉を蹴り開ける。
玉座に座る賢者アルスが、虫けらを見るような目で俺を見下ろし、杖を掲げた。
『滅び――』
アルスの唇が動き、周囲の空間から莫大な魔力が搾り取られる。
魔法が発動するまでの、絶対的な死のカウントダウン。
俺は、極限まで研ぎ澄ませた『クロノスタシス』の中で、深く、静かに息を吸い込んだ。
半年の鍛錬を数千回繰り返し、何万年分もの反復で練り上げた、俺の全て。
ドンッ!!
石畳が爆発するように砕け散る。
踏み込みの反動だけで、音の壁を突破した。
風の抵抗すらパンツ一丁の身軽さで切り裂き、俺の体は一本の矢となって空間を飛翔する。
『――なっ!?』
アルスの瞳孔が、驚愕に開かれる。
詠唱の終わり。魔力が極限まで圧縮され、まさに解き放たれようとした、そのコンマ一秒の隙間。
俺の+70の刀が、その隙間に、完璧な軌道で滑り込んだ。
ズォッ……!!
魔法が発動するよりも早く。
大魔導師の首が、呆気なく宙を舞った。
圧縮されていた魔力が主を失って暴走し、虚空へ向かって無害な光の奔流となって散っていく。
【『無銘の錆刀』が強化されました(+71)】
「……遅いな。魔法なんて、撃たれなきゃただの隙だ」
俺は、刀身の血を振り払い、崩れ落ちる賢者の死体を見下ろして短く吐き捨てた。
半年間という時間を極限まで使い潰し、己の肉体をも神速の領域へと昇華させた瞬間だった。




