一万回の観察と、幻の祝宴
東塔の暗闇の中。俺は刀を振るうことをやめ、ただひたすらに己の命を「観察用のチップ」として投げ打ち続けた。
一万回。主観にして数年。ただ殺されるためだけに消費した時間の果てに、俺はゼクスの絶対的な死角へと滑り込んだ。
「なっ……!?」
初めて、ゼクスが驚愕の声を漏らす。俺は、これまでの全ての鬱憤と、数万の死の重みを乗せた全力の一撃を、+60の刀と共に振り抜いた。
ズパァァァァァッ!!
暗殺者の体が両断され、東塔の暗闇が光の粒子となって晴れていく。
【『無銘の錆刀』が強化されました(+61)】
「……はぁっ、はぁっ……! 終わっ、た……!」
俺は血まみれのパンツ一丁で、その場に仰向けに倒れ込んだ。ついに、四天王の一角を崩したのだ。
◆ ◆ ◆
その日の夜、宿屋『黎明の宿』では、これまでにないほど豪華で幸せな祝賀会が開かれた。
アリアが腕によりをかけた料理が並び、リナとセレーナが頬を赤らめて俺の勝利を称えてくれる。
「ハルトさん、すごいです……!」
「わたくしの計算を超えた、最高の戦いでしたわ」
アリアも「今日は特別なんだからね!」とはしゃいで、俺の背中を叩く。
温かいスープ、肉の脂の甘み、そして何より、自分を信じてくれる仲間との笑い声。
……けれど。
俺の心の中では、冷酷な現実が顔を覗かせていた。
この「+61」に到達した刀をシステムに確定させ、次へ進むためには、俺は再び死んで『初日』に戻らなければならない。
今日中に死ななきゃいけないわけじゃない。明日でも、明後日でもいい。このまま数日間、彼女たちとこの温かい時間に浸ることだってできる。
けれど、この世界には魔王復活というタイムリミットがある。
ここで立ち止まれば、いずれ全てが灰になる。前に進むためには、どうしても自分で終わらせなきゃいけないんだ。
そして俺が死ねば、時間は俺がパンツ一丁でこの街に現れた、あの『初日』まで巻き戻る。
明日、俺が目覚める時、アリアは俺を「不審者」として追い払い、リナは俺を見て「変態」と叫んで気絶する。セレーナは俺を「地獄の鬼」だと蔑むだろう。
俺たちが積み上げてきたこの数日間の絆も、名前を教え合ったあの夜も、このスープの味も。
全部、消えてなくなる。
俺が死体から刀を回収する、あの朝に。
つまり、この肉の味も、勝利の美酒も、リナやセレーナの歓喜も、アリアの特別な笑顔も。
この最高に楽しい時間は全て、『なかったこと』になるのだ。
「……っ」
「ハルト? どうしたの、急に黙り込んじゃって……えっ?」
アリアが覗き込んできた時、俺の視界はひどく歪んでいた。
声を出さずに、ただポロポロと、大粒の涙が頬を伝って落ちていく。
「ど、どうしたんですかハルトさん!? どこかお怪我でも……!?」
「ハルト様……?」
心配する彼女たちに「なんでもない」と笑いかけようとしたが、上手く表情が作れなかった。
俺は逃げるように食堂を飛び出し、夜の冷たい風が吹く薪小屋へと駆け込んだ。
◆ ◆ ◆
薪小屋の藁の上に座り込み、両手で顔を覆う。
情けない。一万回切り刻まれても泣かなかったのに、こんな温かい場所を失うことが、こんなにも恐ろしくて悲しいなんて。
ギィ、と古びた扉が開く音がした。
「……風邪、引くわよ。英雄さん」
ランプを持ったアリアが、そっと俺の隣に腰を下ろした。
彼女は何も聞かず、ただ俺の冷たい背中に、温かい毛布をかけてくれた。
「……ごめん、アリア。せっかくの料理だったのに」
「いいのよ。あんたが泣くなんて、よっぽどのことなんでしょ。……何があったか、聞いてもいい?」
俺は、暗闇の中で静かに息を吐いた。
リナやセレーナには、俺の『システム』は崇高な魔法や計算だと思わせている。
だが、この日常の象徴であるアリアにだけは、本当のことを言わなければならない気がした。
「俺は、死ぬことで時間を巻き戻してるんだ」
「え……?」
「刀の強化値を持ち越すために、俺はこれから自殺しに行く。そうすれば時間は今朝に戻り……今日のお前たちが開いてくれたこの祝賀会は、完全に消えてなくなる。お前たちの記憶からも、全て」
俺が背負っている『業』。
全てを一人で記憶し、他者の時間を強制的にリセットして生き続ける、孤独な化け物の真実。
アリアは目を見開き、そして、泣き出しそうな顔で俺の手を両手でギュッと包み込んだ。
「……あんた、そんなバカみたいなこと、一人でずっと繰り返してたの……?」
「あぁ。俺の本当の名前は、春人だ。……別の世界から、このふざけたゲームに引きずり込まれた、ただの人間だよ」
アリアの手に、俺の涙が落ちる。
「魔王さえ倒せば……この理不尽なゲームをクリアできれば、俺は元の世界に戻れるはずなんだ。だから、どうしても今日、死ななきゃいけない。この楽しい時間を、俺の手で壊さなきゃいけないんだ……!」
震える俺の背中を、アリアは強く、本当に力強く抱きしめてくれた。
「泣かないで、春人」
初めて呼ばれた、その名前。
「記憶が消えても、私が作った料理が消えても。春人がこの世界を救おうとしてる事実は、絶対になくならないわ。……だから、行きなさい」
アリアの声は震えていた。彼女自身、自分が過ごした時間が消える恐怖があったはずだ。
それでも彼女は、俺を前へ進めるために笑ってくれた。
「明日、今朝の私が何も知らずに『おはよう』って言ったら……心の中で、今日のこの料理の味を思い出してよね。約束よ」
「……あぁ。絶対に、忘れない」
俺はアリアの温もりを振り解き、+61の刀を手にして立ち上がった。
彼女に見送られながら、街道の脇へ向かう。
どれだけ時間が巻き戻ろうと、この胸に焼き付いた温もりだけは、誰にも奪わせない。
俺は静かに、自分の首へと刃を立てた。




