剣圧と、ただの一閃
西の荒野の果て。
かつて栄華を極めたという『廃都グラナド』は、分厚い灰色の霧に沈んでいた。
視界を数メートル先までしか許さない、ねっとりとした死の気配。
石造りの建物すらも表面が溶け落ち、異臭を放っている。この霧自体が、古龍の吐き出す致死の猛毒なのだ。
「ハルト様、お待ちください。これ以上は危険ですわ」
俺の背後で、セレーナがハンカチで口元を覆いながら警告した。
彼女とリナには、事前に街で調達した解毒の結界符を持たせている。だが、結界の外に出ている俺の体は、文字通り『無防備なトランクス一枚』だ。
「わたくしの計算によれば、この濃度の毒霧に素肌で触れれば、数秒で皮膚が爛れ、呼吸器が破壊されます。今すぐ、わたくしが調合した中和剤を……」
「……いや、その必要はない」
俺はセレーナの言葉を遮り、右手に提げた『+30』の刀をゆっくりと構えた。
禍々しいまでの赤紫色の光を放つ、もはやただの鉄とは呼べない異常な質量を持った刃。
「セレーナ。計算ってのは、前提条件が正しい時にだけ成り立つもんだ」
俺は小さく息を吸い込み、ただ無造作に、眼前の毒霧に向かって刀を振り抜いた。
ゴアアアアアアアアッ!!
爆音。
いや、それは音が鳴ったのではない。空気が、空間ごと物理的に「断ち切られた」音だった。
刀身から放たれた目に見えない凄まじい剣圧が、暴風となって一直線に廃都を駆け抜ける。
分厚い灰色の毒霧が、まるで巨大な刃に裂かれた果実のように真っ二つに割れ、その間に、雲一つない青空と、廃都の中心へと続く「完璧に安全な道」が拓かれた。
「…………え?」
セレーナが、持っていた中和剤の小瓶を取り落とした。
リナも呆然と口を開け、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
「け、剣圧だけで……致死の霧を、物理的に吹き飛ばした……? そんな、物理法則を無視した暴力……わたくしの計算式には……っ」
「だから、お前の計算は間違ってない。俺の『前提』が狂ってるだけだ」
数百回の死と、数え切れない絶望の果てに辿り着いた+30の暴力。
俺は霧が晴れた一本道を、真っ白なパンツ一丁で悠然と歩き出した。
◆ ◆ ◆
廃都の中心、巨大な大聖堂の跡地。
そこに、世界を滅ぼすという魔王の眷属、『灰色の古龍』が鎮座していた。
ビルほどもある巨大な体躯。全身を覆うのは、いかなる魔法も鋼も弾き返すという灰色の逆鱗。
そいつは、霧を吹き飛ばして現れた半裸の人間を見下ろし、地鳴りのような咆哮を上げた。
ビリビリと大気が震え、背後にいるリナとセレーナが悲鳴を上げてしゃがみ込む。
生物の根源的な恐怖を呼び覚ます、圧倒的な「強者」のプレッシャー。
だが。
俺の心には、恐怖も、絶望も、一ミリたりとも湧かなかった。
「……なんだ。ただのデカいトカゲじゃないか」
威圧感なら、あのミミックスライムに初めて殺された時の方がよほど恐ろしかった。
絶望なら、アイテムをロストしたあの瞬間の方が何万倍も深かった。
俺の心は、すでにこの程度の見掛け倒しで揺らぐほど、柔な造りをしていない。
古龍が、俺を塵芥と見なして巨大な顎を開く。
極大の毒のブレスが放たれようとした、その瞬間だった。
『クロノスタシス』。
世界が止まる。
ブレスの火の粉が空中で静止し、古龍の瞳孔の収縮すらもが凍りつく。
だが、もはやその静止した時間の中で、最適解を探す必要すらなかった。
今の俺の手には、理不尽を叩き割るための理不尽がある。
「――邪魔だ」
俺は地面を蹴り、古龍の懐へと飛び込んだ。
振りかぶった+30の刀を、ただ力任せに、横薙ぎに一閃する。
ズッ……。
何の抵抗もなかった。
鋼を弾く無敵の鱗も、巨大な筋肉も、太い骨も。
俺の刀は、まるで温かいバターに熱したナイフを入れるように、古龍の首を滑らかに通り抜けた。
時間が動き出す。
ブレスを放とうとしていた古龍の巨大な頭部が、首の付け根からゆっくりとズレ、そして、地響きと共に石畳へと崩れ落ちた。
遅れて、首の断面から灰色の血が間欠泉のように噴き出す。
完全なる、一撃必殺。
かつて栄華を誇った廃都の支配者は、自分が何に斬られたのかすら理解できないまま、淡い光の粒子となって霧散していった。
【『無銘の錆刀』が強化されました(+31)】
刀に吸い込まれる光を確認し、俺は軽く首の骨を鳴らした。
「ハルト、様……。今、のは……」
追いついてきたセレーナが、震える声で尋ねる。
その瞳には、古龍に対するものとは違う、人智を超えた存在(俺)への純粋な畏怖が宿っていた。
「終わったぞ。これで、この辺りの毒霧も晴れるだろう」
俺は刀を提げたまま、振り返って笑った。
だが、俺の意識はすでに、倒した古龍などには向いていない。
+31。
この刃があれば、魔王にも届くかもしれない。
だが、魔王を確実に屠るためには、武器だけでは足りない。絶対に防がなければならない攻撃を凌ぐための『最強の防具』や『装飾品』も必要になるはずだ。
……そうか。
俺は、自分の足元――古龍が消えた空き地を見つめた。
俺がパンツ一丁でいるのは、抽選プールを一つに絞るため。
だが、もし。
世界各地の『安全な場所』に、俺の死体を複数配置し、それぞれに別々の最強装備を握らせて保管しておけたらどうなる?
魔王の目の前でその死体たちから装備を回収し、一瞬だけ『フル装備』になればいいのではないか。
俺の脳内で、魔王討伐への狂気的なパズル――『死体の回廊』計画が、ついにその全貌を現し始めていた。




