魔狼の影と、加速する誓約(ギアス)
西の『嘆きの谷』。
薄暗い霧の中を、俺はリナを背に庇いながら慎重に進んでいた。
彼女の落とした杖を探すためだが、俺の意識の大部分は、周囲の気配を極限まで探ることに割かれていた。
四つ目の魔狼。
魔法の詠唱すら許さないという、初見殺しの速度を持つネームドモンスター。
「ハルトさん、あそこに……!」
リナが霧の奥を指差した瞬間だった。
俺の『クロノスタシス』が反応するよりも早く、足元の影が不自然に膨れ上がった。
――下か!
「リナ、伏せろっ!」
俺は反射的にリナを突き飛ばした。
直後、俺の足元の影から飛び出してきた漆黒の獣が、巨大な顎で俺の胴体を真横から食い千切った。
「あ、が……っ!?」
視界が裏返る。宙を舞う俺の半身。
地面に叩きつけられる寸前、俺の目に最後に映ったのは、血飛沫を浴びて悲鳴を上げるリナの姿だった。
「ハルト、さ……っ! いやああああああっ!!」
俺の意識は、冷たい暗闇へと沈んだ。
守れなかった。俺が死ねば、残された彼女も確実に食い殺される。
【『無銘の錆刀+20』を次周へ引き継ぎます】
始まりの広場。
噴水の冷たい水音と共に意識が浮上した俺は、己の不甲斐なさに奥歯を噛み砕く勢いでギリリと鳴らした。
+20の刀は、魔狼の巣に転がる俺の死体が持っている。
今すぐ助けに行かなければ。いや、時間が巻き戻っているのなら、リナは今頃、あのゴブリンたちに追い詰められている時間だ。
俺は広場を蹴り出し、真っ白なパンツ一丁で、丸腰のまま西の谷へと全速力で走った。
◆ ◆ ◆
「ひっ……あ、来ないで……っ、誰か……!」
岩陰で、ゴブリンに囲まれる銀髪の少女。
俺は迷うことなく、その群れの中へ飛び込んだ。
前回は刀があった。だが今回は素手だ。
極彩色のスローモーションの世界。
俺はゴブリンの棍棒を躱し、素手でその首の骨をへし折り、粘液越しに核を直接粉砕していく。
五匹のゴブリンが霧散し、俺は血まみれの拳を振って振り返った。
「……大丈夫か?」
前回と同じ問いかけ。
リナは震えながら俺を見上げ、そして俺の格好――パンツ一丁で、武器すら持っていない素手の姿を見て、息を呑んだ。
「あ、あの……。まさか、貴方は……」
また変態扱いされて気絶するか。
そう身構えた俺だったが、彼女の反応は前回とは全く違っていた。
「武器すら……持たないなんて。服という防御だけでなく、自ら武器を捨てることで、さらに過酷な『誓約』を……っ!?」
ポロポロと、リナの目から大粒の涙が溢れ出した。
「どうしてそこまで……っ! 私みたいな通りすがりの人間を助けるために、貴方は武器という命綱すら世界に捧げて……! なんて、なんて強くて、悲しい人なんですか……っ!」
「……えっと」
「私、決めました! 嘆きの谷までお供させてください! 丸腰の貴方を、私の魔法で少しでもお守りします!」
前回よりもすれ違い(勘違い)の規模がデカくなっている。
武器を捧げたわけじゃない。さっき狼に殺されて死体の上に落としてきただけだ。
だが、丸腰の俺にとって、回復と支援ができるリナの同行は必須だった。
俺は黙って頷き、彼女と共に再び谷の奥へと進んだ。
◆ ◆ ◆
谷の最深部。
霧が晴れた先には、あの四つ目の魔狼が、何かを守るように伏せていた。
その足元に転がっているのは、無惨に食いちぎられた『俺の死体』だ。そしてその死体の右手には、鈍く輝く『+20の刀』が握りしめられている。
「ハ、ハルトさん……! あそこにあるの、ハルトさんにそっくりな……死体……?」
リナが恐怖で震える声を出した。
当然だ。隣にいる男の死体が転がっているのだから。
「あぁ。あれは……俺の力を蓄えるための、抜け殻だ。あいつの手から、刀を取り戻さなきゃならない」
俺の言葉を聞いて、リナはハッとして両手で口を覆った。
「(自らの命を削って分身を作り、そこに武器を封印する誓約……!? そこまでしないと勝てない相手なのね……!)」
勝手な超解釈で顔を青ざめさせるリナに、俺は短く指示を出した。
「リナ。俺が飛び出す。あいつの目が俺に向いた瞬間、お前の最大火力の光魔法で、奴の視界を潰してくれ」
「はいっ! ……『閃光の縛鎖』!!」
リナの杖から、目を開けていられないほどの強烈な閃光が放たれた。
魔狼の四つの目が眩み、僅かに動きが止まる。
その一瞬の隙を突き、俺は死線の中へ飛び込んだ。
自分の死体の指を無理やりこじ開け、+20の刀を引き抜く。
「……待たせたな」
刃の重みが手の中に戻った瞬間、俺の全身の細胞が歓喜に震えた。
魔狼が視力を取り戻し、怒り狂って影から飛びかかってくる。
「今度は、見えてるんだよっ!」
止まった世界。
リナの放った追撃の魔法が魔狼の動きを僅かに鈍らせ、その僅かなズレが、俺の刀を完璧な軌道へと導いた。
急所である四つの目の中心。そこに、+20の暴力的な一撃が深々と突き刺さる。
ギャアアアアアアアッ!!
鼓膜が破れそうな断末魔と共に、魔狼の巨体が両断され、霧散していく。
そして、刀に吸い込まれる新たな光。
【『無銘の錆刀』が強化されました(+21)】
「……ははっ、やったぞ」
俺は血まみれで刀を振り下ろし、膝をついた。
駆け寄ってきたリナが、ボロボロ泣きながら俺の背中に抱きついてくる。
「ハルトさん、ハルトさん……っ! よかった、生きて、生きててくれて……っ!」
彼女の温もりが、冷え切った俺の背中にじんわりと染み込んでいく。
こうして俺は、2人目のヒロインの魂に、絶対に消えない「依存」の楔を打ち込んだのだった。
だが、この時の俺はまだ知らなかった。
魔狼の背後に隠されていた洞窟の奥に、次なる地獄への扉が口を開けて待っていることを。




