銀髪の少女と、深まる勘違い
「ひっ……あ、来ないで……っ、誰か……!」
嘆きの谷の霧の向こう。岩陰に追い詰められ、銀色の髪を振り乱して震えている少女の声が、静寂を切り裂いた。
彼女を囲んでいるのは、五匹のゴブリン。
このエリアの雑魚だが、今の彼女には死神の手先に見えているだろう。一匹がニタリと笑い、棍棒を振り上げた。
ドシュッ。
世界の時間が、カチリと音を立てて静止する。
俺の脳内に描かれた、五本の不可視の光条。
俺は、あいつらよりも遥かに速い速度で霧を切り裂き、岩陰へ踏み込んだ。
すれ違いざま、呼吸をするよりも自然な動作で、+20まで鍛え上げた『無銘の錆刀』をただ五回、振るっただけだ。
止まった世界の中で、ゴブリンたちの首が、胴体が、正確に両断される。
俺が刀を鞘に収める――鞘はないので、ただ提げ直す動作をした瞬間。
背後で五つの爆発音が重なり、ゴブリンたちが淡い光となって霧散した。
「……大丈夫か?」
俺は血まみれの顔を拭い、岩陰の少女に声をかけた。
彼女は、何が起きたのか理解できていない様子で、大きな瞳を見開いて俺を見上げている。
銀糸のような髪。透き通るような肌。小柄な体をローブで包んだ、まだ幼さの残る魔導師の少女。
「あ……。あ、あの……助けて、いただいた……?」
リナ――彼女の名札には、そう刻まれていた。
リナは震える声で感謝を述べようとして、ふと、俺の姿を真っ向から捉えた。
俺の顔。血まみれ。
俺の右手。血まみれの刀。
そして。
俺の体。真っ白な、一点の汚れもない、清潔極まりないトランクス一枚。
「……え」
リナの顔から、急速に血の気が引いていく。
ゴブリンに囲まれていた時とは、また質の違う、より根源的な恐怖が彼女の瞳に宿った。
「ちょ……、きゃあああああああああああっ! 変態! 不審者! 死神ーっ!!」
鼓膜を劈くような悲鳴。
.彼女は顔を真っ赤にして飛び退こうとし、足がもつれて岩に頭をぶつけ、そのまま白目を剥いて気絶してしまった。
「……あ。おい」
俺は、倒れ込んだリナを虚しく見下ろした。
せっかくかっこよく助けたつもりだったのに、この反応だ。
「……そうか。普通は、こうなるか」
俺は、鈍い光を放つ刀身に映る、自分の姿を見た。
血まみれで、パンツ一丁。
この数ヶ月。アリアと話し、トカゲを狩り、自殺する。その狂気のルーティーンを繰り返す中で、俺の羞恥心は完全に摩耗し、どこかへ消え失せていたらしい。
この格好が、この世界で唯一「確定」を掴み取るための正装であるという確信が、俺から「一般的な感覚」を奪っていたのだ。
「……クソ。西への探索は、お預けか」
この霧の中、気絶した少女を一人置いていくわけにはいかない。
俺は深い溜息をつき、刀を腰に……提げ直し、リナを背負った。
驚くほど軽い。
俺は彼女を背負ったまま、来た道を街へと引き返した。
◆ ◆ ◆
街へ戻り、『黎明の宿』の扉を押し開ける。
「アリア、すまない。行き倒れを拾っ……」
「きゃあああああああああああっ!!」
本日二度目の、鼓膜を劈くような悲鳴。
カウンターの奥でアリアが顔を真っ青にして飛び退き、箒を武器のように構えた。
「ちょっとあんた! 何その格好!? またパンツ一丁で、今度は女の子を背負って!? 何したのよ、この人攫い! 変態悪魔!」
「勘違いするな。谷で魔物に襲われていたのを、ただ助けただけだ」
「嘘おっしゃい! あんたみたいな不潔な男に助けられるなんて、その子の方が可哀想じゃない! さっさとその子を離しなさい、このハレンチ男!」
アリアは顔を真っ赤にして、今にも箒で殴りかかってきそうな勢いだ。
無理もない。深夜の宿に、下着姿で血濡れの刀を引きずった男が、気絶した少女を背負って現れたのだ。客観的に見れば、俺は人攫いの変態そのものだ。
「……頼む。この子、怪我はしてないが、ショックで気絶してるんだ。どこか空いてる部屋を……」
「……あぁ、もう! わかったわよ! とにかく、その子を二階の部屋へ運んで! あ、あんたは薪小屋よ! 薪小屋で頭冷やしてきなさい!」
アリアは怒鳴りながらも、リナを見捨てることはできなかった。彼女の正義感に、俺は心の中で感謝した。
◆ ◆ ◆
翌朝。
俺は、薪小屋で目を覚ました。
体がひどく痛む。だが、生きている。
俺は刀を提げ、宿の二階、リナが寝かされている部屋へ向かった。
部屋に入ると、リナはベッドの上で起き上がっていた。
アリアがそばに付き添い、彼女に温かいスープを飲ませている。
俺の姿を見るなり、リナはびくりと体を震わせ、毛布を首元まで引き上げた。
「……あ、あの……、昨日、は……」
「気がついたか。リナ、だったな」
俺の声を聞いて、リナはおそるおそる、毛布から大きな瞳を覗かせた。
そこには、昨日のような恐怖だけではなく、僅かながら「感謝」の色が混じっている。
「……はい。あの……谷で、ゴブリンに追い詰められていたのを……助けて、いただいたんですよね? 本当に……本当に、ありがとうございました……っ」
リナは、何度も何度も頭を下げる。
彼女の誠実な感謝の言葉に、俺の心も少しだけ温かくなる。
だが、リナは頭を上げた後、俺の姿を見て、再びフリーズした。
昨日と同じ、真っ白なトランクス一枚。
「……え」
リナは、顔を真っ赤にして、毛布をさらに強く握りしめた。
アリアが横で、呆れたように深く溜息をつく。
「……あの、あの……命を、救っていただき、本当に……。でも、あの、どうして……下着姿、なんですか……?」
リナの、震える声での質問。
彼女の瞳には、純度百パーセントの疑問と、僅かながら「もしかして、この人も何かの呪いに……?」という、妙な深読みの色が混じっていた。
「…………」
俺は、言葉に詰まった。
「効率化のためだ」
「この世界で唯一ロストしないアイテムが、このパンツだからだ」
そう正直に言いたい。だが、アリアの手前、そんな狂気じみた理由を口にすれば、今度こそこの宿から追い出されるだろう。
俺の終わりのない『強化』の地獄。
それを、この温もりを持つ少女たちに説明する術を、今の俺はまだ持っていなかった。




