第17話 脱出
窓の縁に手をかけた瞬間、裾が窓枠に引っかかり、エレーナは小さく声を漏らした。
「……あっ」
慌ててバランスを崩しかけ、胸の奥が凍りつく。
落ちる、と直感したその瞬間――。
「気をつけろ」
低く落ち着いた声とともに、強く温かな手が彼女の腕を支えた。
顔を上げると、夕陽に照らされた栗色の髪が揺れ、燃えるような琥珀色の瞳が真剣にこちらを射抜いていた。
まるで逃げ場を与えない光に、エレーナの胸は一瞬だけ早鐘を打つ。
「……ありがとう」
小さく礼を言うと、アドリアンはすぐに視線を逸らし、短く返した。
「これくらい当然だ」
彼の手が離れた瞬間、腕に残った温もりが妙に気になり、エレーナは慌てて裾を整えて地面に降り立った。
植え込みの影からレオンがひょこっと顔を出す。
「おっ、無事成功だな! さすが僕の姉さん!」
「それから……僕の華麗なる時間稼ぎはどうだった?よかっただろ?」
胸を張る弟に、アドリアンは淡々と冷ややかに返す。
「華麗というより、騒々しい」
「ひどっ! ちゃんと役目果たしたのに!」
レオンが抗議するのを聞いて、エレーナは思わずくすりと笑った。
緊張に縛られていた肩が、ふっと緩む。
だが次の瞬間、羊皮紙を抱きしめながら現実が胸にのしかかる。
「……証拠とは言い難いけど、これでマルセリーヌが一人でやったんじゃないって示せるはず」
アドリアンの琥珀色の瞳が険しく細められる。
「確かに一つの材料にはなる。だが……まだ弱い。監督室には他の教師も出入りできる。誰が仕組んだのか、そこまではまだわからない」
「……そうね」
エレーナは唇を噛んだ。
レオンがパンッと手を叩き、元気な声をあげる。
「なら、僕たちの屋敷で作戦を立てよう! ここじゃ落ち着かないし、姉さんも疲れてるだろ?」
「屋敷で……?」
エレーナが目を瞬かせると、レオンはにかっと笑った。
「もちろん! 僕たちの屋敷なら安全だし、お茶もお菓子もあるし、頭を整理するのにぴったりだ!」
「……お前は食べ物のことしか考えてないのか」
アドリアンが呆れたように肩をすくめる。
「違うって! 僕は“しっかり者”だから! 環境作りも作戦のうちなんだ!」
レオンが慌てて手を振ると、エレーナは思わず吹き出してしまった。
「……ふふっ」
笑ったあと、彼女はふうっと息を吐き、そっとメガネを外した。
長いまつ毛が小さく震え、アイスブルーの瞳が夕陽を映して淡く光る。
「……疲れた」
小さく呟き、額に手を当てる。
その何気ない仕草に、アドリアンは一瞬言葉を失った。
(……この姿……)
夕陽に透ける白金色の髪。肩の力を抜き、素顔を覗かせる彼女。
(昔のエレーナにそっくりだ……)
幼い頃、遊び疲れては同じように小さく息を吐いていた。
無邪気で、何も飾らない姿。
(本当に……“乗っ取られていた”のか? それとも、あの性悪な振る舞いこそが本性で、今はただ演じているだけ……?)
胸の奥で、疑念と小さな信頼がせめぎ合う。
琥珀色の瞳を細めたアドリアンは、やがて視線を逸らし、低く告げた。
「……行こう。ここに長居するのは危険だ」
エレーナはメガネをかけ直し、懐の羊皮紙をぎゅっと握りしめた。
「ええ。屋敷でなら、これからどうするか落ち着いて考えられるわ」
三人は夕闇に染まる学園を背に、正門へと歩き出した。
遠ざかる足音の中で、夕陽が静かなオレンジの輝きを放っている。
証拠はまだ弱い。けれど――。
(必ず……マルセリーヌを救ってみせる)
胸にそう誓いながら、エレーナは屋敷へ続く道を一歩一歩踏みしめた。




