第1話 奴隷少女と白銀紳士
ヴァルネスの港に着いたとき、最初に感じたのは潮の匂いだった。
あたしの両手には鉄枷がはめられ、前を歩く女の人と一本の鎖で繋がれている。歩調がずれるたび、手首に鉄が食い込んだ。
「止まるな」
背中を小突かれ、あたしは石畳を歩く。
港にいた人たちが、次々にこちらを見る。珍しい生き物でも見るような目。
――あたしたちは家畜じゃない。
でも、あの目は家畜を見る目と同じだった。
「その娘を前へ」
鎖を引かれ、列から出される。
目の前にいたのは、ケニー・サンドロヴィッチ。あたしたちをここまで運んできた奴隷商人だった。
背の高い痩せぎすの男で、こけた頬には薄い無精ひげがある。上等な服を着ているのに、細い目だけが妙にぎらついていた。
その向かいには、身なりのいい男が立っている。
「この娘など、いかがです?」
ケニーがあたしの肩を掴んだ。
「ミア・キスペ。十三……いや、十四だったかな。黒髪に黒い瞳。肌の色もこの辺りでは珍しい。なかなかの上玉でしょう?」
顎を持ち上げられる。男があたしの顔から足元まで、遠慮なく眺めた。
「ずいぶん若いな」
「若いから価値があるんですよ。遠い異国の娘でしてね。この辺りではまず見かけない」
「値段は?」
「それはもちろん、それなりに」
まるで馬か宝石でも選ぶみたいだった。
黒い髪も、大きな黒い目も、少し濃い肌も、昔はただのあたし自身だった。今は全部、値段をつけるための材料になっている。
「待ちなさい」
よく通る女の声がした。ケニーが面倒そうに振り返る。
そこには若い女の人が立っていた。十代後半だろうか。淡い金色の長い巻き髪。深い青のドレスに白い毛皮の外套。小柄で華奢なのに、青色の瞳はまっすぐケニーを見ている。
綺麗な人だと思った。
でも、それより気になったのは、あたしたちを見る目だった。他の人たちのような値踏みをする目じゃない。
「ミッシェル様……」
周囲の人たちが頭を下げる。どうやら領主様の娘のようだ。
「この人たちを、ここで売るつもりですか」
「もちろんです。正式な手続きを踏んだ商品でございますので」
「商品? この人たちは人間です」
「ええ。当然、人間でございます。だからこそ価値がある」
ミッシェルの顔が険しくなる。
「私の領内で、こんな商売を好き勝手にはさせません」
その言葉に、胸の奥がほんの少しだけ動いた。
ケニーは薄く笑う。
「世間知らずのお嬢様は、口を挟まないでいただきたい。これはビジネスです」
ミッシェルは食い下がった。けれど、ケニーも引かない。許可だとか契約だとか、あたしには分からない言葉が飛び交う。
ただ一つだけ分かった。この人にも、あたしたちを助けることはできない。
ミッシェルと目が合う。歯痒そうな表情だ。
――助けて。
声には出さなかった。胸の奥に生まれかけた期待が、ゆっくり消えていく。
そのとき、石畳を大きな影が横切った。見上げると、白い隼が一羽、港の上空を旋回している。陽を受けた翼が、銀色に光って見えた。
――自由に飛べるって、どんな気分なんだろう。
そう思ったのは、一瞬だけだった。
◇
夜になると、あたしたちは港近くの館の地下へ押し込められた。
石造りの牢は湿っていて、昼間の潮風が嘘みたいに空気が重い。細い窓は高い位置にあり、外の様子はほとんど見えなかった。
あたしは壁際に座り、膝を抱えていた。
同じ牢には、あたしを含めて七人いた。年老いた男が二人。若い女が三人。あたしより少し年上に見える男の子が一人。みんな壁際に寄り、ほとんど口を利かない。
隣の牢にも何人かいるらしい。時々、鎖の擦れる音や咳が聞こえた。
明日になれば、また誰かに値段をつけられる。そして買われれば、たぶん二度とここにいる人たちとは会わない。
ふと領主様の娘、ミッシェルの顔が浮かんだ。あたしたちを助けようとしてくれた、お嬢様。でも――。
廊下の向こうから足音がした。ゆっくり近づいてきて、あたしたちの牢の前で止まる。
鍵が回った。
入ってきたのは、昼間から何度かこちらを見ていたケニーの手下だった。
大柄で、短く刈った黒髪に無精ひげ。厚い肩を革の上着で包んだ、いかにも荒事慣れした男だった。
「おい。お前、来い」
あたしは指を差された。男が鎖を掴む。
逆らえば何をされるか分からない。あたしは立ち上がった。
牢を出ると、扉が閉められた。男はあたしだけを連れて地下の廊下を歩いていく。
明かりは壁に掛けられた小さなランプだけ。奥へ進むほど、人の気配がなくなっていった。
「静かに歩け」
角を曲がる。そこは物置のような場所だった。木箱や古い樽が積まれ、牢からは完全に死角になっている。
男が立ち止まった。あたしは振り返る。
その目を見て、ようやく意味が分かった。息を飲んで一歩下がる。
「口を開くな、おとなしくしてろ」
男が腕を掴んだ。
「離して」
「売る前に、ちょっとくらい構わねえだろ」
「嫌」
「黙ってろって言っただろ。大人しくしろ」
「嫌っ!」
思いきり腕を振り払う。男がよろけた。
一瞬きょとんとした顔をしたあと、その表情が変わった。
「このガキ……!」
右手が振り上がる。あたしは反射的に目を閉じた。
けれど、いつまで待っても痛みは来なかった。
「……なんだ?」
男の声に、目を開ける。
振り上げた腕が途中で止まっていた。誰かが背後から、その手首を掴んでいる。
白銀の長い外套。銀糸の刺繍が入った礼装。白い手袋。ひと目で上等と分かる身なりに、顔の上半分を覆う銀色の仮面。
薄暗い地下の片隅には、ひどく場違いな男だった。
「誰だ、貴様は!」
白銀の紳士は手を離さない。ただ、静かに答えた。
「商談に来た」




