第1話 英雄になんてならないよ
「大きくなったら、父さんみたいな英雄になるんだ!」
幼い俺がそう言うと、父のエイナルは少しだけ困ったような顔をした。
大きな手が、俺の頭に乗る。父の腰には剣があった。いつも漁に出るときの格好とは違う。厚い白銀の鎧にマント。腰には白銀の剣。
格好いいと思った。ヴァルネスを守る勇敢な戦士。俺の父さんは、英雄なんだ。
「じゃあ、行ってくる。良い子にしてるんだぞ。母さんをよろしくな」
「うん。いってらっしゃい!」
父が背を向ける。その背中が、少しずつ遠ざかっていく。
やがて辺りが暗くなった。父の姿が、闇の中へ消えていく。
「父さん?」
返事はない。俺は一目散に追いかけた。
走っても、追いつかない。どんどん遠くなる。
「父さーん!」
そこで目が覚めた。
薄暗い天井が見える。しばらく何も考えられず、俺は天井を見つめていた。額に汗が滲んでいる。
「……また、あの夢か」
俺は腕で額を拭った。
「俺はならないよ、英雄になんて」
◇
子供の頃の俺――クライスは父親から剣術をよく教えてもらっていた。父のような勇敢な戦士や英雄に憧れていたからだ。
家の裏手にある空き地で、俺は両手で木剣を構える。向かいに立つ父も同じ木剣を持っていた。
「来い」
「いくよ!」
地面を蹴り、思いきり木剣を振り下ろす。
父は半歩横へ動いただけだった。空振りした勢いで身体が前へ流れる。次の瞬間、足を払われて地面に転がった。
「痛っ」
「剣ばかり見てるからだ」
「見ないと戦えないじゃん」
「相手は剣だけじゃない。手もある。足もある」
父が木剣の先で俺の足元を軽く叩く。
「足を止めるな。相手の身体をよく見ろ」
「分かった」
立ち上がって、もう一度構える。
今度は父の木剣だけを見ない。肩、腕、足。全部見る。
「うおおっ!」
「声だけは一人前だな」
振り下ろした木剣を受け止められる。そのまま押し返されそうになり、今度は横から振った。
それも簡単に止められた。
「もう一回!」
「今ので二回だ」
「じゃあ三回目!」
何度やっても一本も取れない。
父は戦えば強かった。街の大人たちがそう言っていたし、実際にこうして剣を合わせれば、子供の俺にもよく分かる。
「ねえ、父さん」
「なんだ」
「父さんくらい強くなったら、海賊なんて簡単に倒せる?」
父の木剣が止まった。
「簡単な戦いなんかない」
「でも、父さんは負けないだろ?」
父はすぐには答えなかった。
俺には、その沈黙の意味が分からなかった。
「俺も強くなる。父さんみたいな戦士になるんだ」
「そうか」
「それで、海賊が来たら俺がやっつける」
父は少し困ったように笑った。
「まずは俺から一本取ってから言え」
「取るよ。すぐに!」
「十年早い」
「じゃあ十年やる!」
父が笑った。
「そうか」
木剣を構え直す。
「なら、もう一回来い」
「うん!」
俺はまた父に向かって駆け出した。
◇
俺は父親の船にも、よく乗せてもらっていた。
「クライス、そっちを引け」
両手で網を掴み、力いっぱい引っ張る。重い。でも、父の前で弱音なんか吐きたくなかった。
「そんなに力むな。海に落ちるぞ」
「大丈夫だって!」
ようやく網が海面から姿を現した。銀色の魚が何匹も跳ねている。
「へへっ、大漁だね!」
「ああ。今日は悪くないな」
「悪くないどころじゃないよ。大漁だよ!」
父は笑いながら網を引き上げた。俺も負けじと手伝う。
父は漁師だった。朝早く海へ出て、魚を獲って、夕方には家へ帰ってくる。だけど父の仕事は、それだけじゃなかった。
戦士。それが父エイナルのもう一つの職業だ。
ヴァルネスでは、普段は漁師や職人として働きながら、いざというときには武器を持って戦う男たちがいる。父さんも、その一人だった。
何度もヴァルネスを守り、戦いでは誰よりも活躍する。街のみんなが父を知っていた。俺にとって父は、ヴァルネスで一番の英雄だった。
港へ戻ると、桟橋に見慣れた女の子が立っていた。
「クライス!」
「セシリア!」
亜麻色の髪を揺らしながら、幼馴染のセシリアがこちらへ走ってくる。
「今日はどうだった?」
「大漁!」
「ほんと?」
「見てみろよ」
俺は得意げに船の中を指差した。籠いっぱいの魚を見て、セシリアが目を丸くする。
「すごい」
「俺が網を引いたんだ」
「エイナルおじさんが引いたんじゃないの?」
「俺も引いた!」
父が後ろで笑っている。
「それだけじゃないぞ。父さん、この前の戦いでも一番活躍したんだからな」
「知ってるよ。うちのお父さんが言ってた。ほんと凄いよね」
「大したことじゃない」
と父がぶっきらぼうに言う。
「大したことあるよ!」
俺はすぐに言い返した。
「父さん、領主様の専属の戦士にならないかって誘われてるんだぞ」
「そうなの?」
「ああ。漁師を辞めてお付きの戦士になれって」
父は船を片づけながら、黙って俺たちの話を聞いていた。
前から不思議だった。魚を獲るのも上手いけど、父は戦えばもっとすごい。
「そんなつもりはない」
「ねえ。どうして専業の戦士にならないの? スカウトされてるんでしょ?」
父の手が止まった。少しだけ考えるように海を見る。それから、いつもの調子で言った。
「クライス、俺は漁師だ」
そう答えると父は、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「痛いって!」
「帰るぞ」
そのときの俺には、父が何を言いたかったのか分からなかった。ただ、もったいないと思った。あんなに強いのに。あんなにみんなから頼りにされているのに。
俺なら絶対に戦士になる。そして、父みたいな英雄になる。
そう思っていた。
◇
その日の夕食には、昼間に父と獲った魚が並んだ。
「これ、俺が獲った魚だよ」
母が焼いた魚を指差す。
「網を引いただけだろ」
「俺も引いたんだから、俺が獲ったの!」
「はいはい。二人で獲った魚ね」
母が笑いながら、俺と父の前にスープを置いた。魚と黒パン、それに野菜の入ったスープ。いつもの夕食だった。
「今日ね、すごい大漁だったんだよ」
「そう。良かったわね」
「それから剣の稽古もした」
母の手が止まった。
「また?」
「うん。今日はもう少しで父さんから一本取れそうだった」
「そうなの?」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ!」
「かすりもしてない」
「次は取れるもん」
父が黒パンをちぎりながら笑う。
母は呆れたように父を見る。
「漁から帰ってきたと思ったら、今度は剣。二人とも元気ね」
「クライスがやりたいって言うからな」
「父さんみたいに強くなりたいんだ」
そう言うと、母は少しだけ困ったような顔をした。
「そんなに強くならなくてもいいのよ」
「なんで?」
「怪我するから」
「大丈夫だよ。父さんだっていつも帰ってくるじゃん。それに俺、父さんより強くなるから」
「そりゃ楽しみだ」
「ほんとだよ。大きくなったら父さんみたいな戦士になるんだ」
父が食べる手を止めた。
「戦士なんかより、漁師の方が尊い仕事だぞ」
「どうして?」
「海に出て魚を獲る。家族を食わせる。生きていくには、それで充分だ」
「でも、戦士になったらみんなを守れるよ。英雄にもなれる」
「英雄なんて、なるもんじゃない」
父はそう言って、焼いた魚を口へ運んだ。
俺には意味が分からなかった。
街のみんなから頼りにされて、悪い海賊をやっつける。父は強くて、格好いい。漁師より戦士の方がずっとすごいと思っていた。
母が俺の皿に魚を取り分ける。
「私はね、三人でこうやってご飯を食べられれば、それでいいの」
「毎日食べてるじゃん」
「そうね」
母は笑った。
「だから、明日も明後日も食べたいの」
「当たり前だよ」
父が顔を上げる。
「そうだな」
短く答えて、また魚を食べる。
「父さん、明日も漁?」
「ああ。朝早く出るぞ」
「俺も行く!」
「寝坊するなよ」
「しないよ!」
母が笑い、父も笑った。
明日になれば、また父と海へ出る。そして夜になれば、三人で食卓を囲む。
あの頃の俺には、父と母が言っていたことの意味が分からなかった。
それがずっと続くものだと思っていた。
◇
ある日、港の鐘が何度も鳴った。
海賊が来た。
その知らせは、あっという間に街中へ広がった。大人たちが慌ただしく走り回り、港には武器を持った男たちが集まっていた。
父にも招集がかかった。
「行ってくる」
心配そうな母親を背に、俺はいつものように笑顔で父を見送った。
「大きくなったら、父さんみたいな英雄になるんだ!」
幼い俺がそう言うと、父は少しだけ困ったような顔をした。大きな手が、俺の頭に乗る。
父の腰には剣があった。いつも漁に出るときの格好とは違う。厚い白銀の鎧にマント。腰には白銀の剣。
格好いいと思った。ヴァルネスを守る勇敢な戦士。俺の父さんは、英雄なんだ。
「じゃあ、行ってくる。良い子にしてるんだぞ。母さんをよろしくな」
「うん。いってらっしゃい!」
それが、父を見た最後だった。




