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楠警部はすぐに部下を呼び集めて、園内を中心にコートを着た不審人物を捜した。いくつかの目撃証言も得られていたのだが、一時間かけて調べてみても、犯人と思われる人物を見つけることはできなかった。
疲労と暑さで、ぐったりとなりながら、T警察署の刑事二人はモンキーエリアの正面の広場に戻ってきた。楠警部はそのままアイスクリーム屋に向かい、アイスを二つ買って、一つを桐生に渡した。ベンチに座ってアイスを舐めながら涼んでいると、どこからか、
「きゃー」という女性の悲鳴が聞こえてきた。
その悲鳴にびっくりして、楠警部はアイスを地面に落としてしまった。
「あー、おれのアイスが」楠警部は半泣きの顔で溶けていくアイスを眺めている。
「それよりも早く行きましょう。向こうの方から聞こえましたよ」桐生はベンチから立って、悲鳴のした方に走っていく。
悲鳴はサバンナエリアの方向から聞こえてきた。そこに行くには、狭い通路を通って行かなければならない。そこは六日前に死体が発見された場所だ。
通路を抜けて開けた場所に出る。左手には草原のような空間が広がっていて、シマウマやダチョウの姿が見える。右手にはキリンやカンガルーがいて、まさに別世界にやってきたようだ。
そのサバンナエリアの左の隅の方に人だかりがしていた。近づいてみると、屋外トイレがある。楠警部は野次馬の一人に話しかけた。
「なにかあったんですか?」
話しかけられた男性はトイレの方向を指さした。
「トイレの中で人が倒れてるみたいです」
それを聞くと、楠警部は険しい表情になってトイレの中に駆けていく。桐生も後に続く。
男性トイレの中には四人の見物人がいた。彼らを掻き分けて前に出ると、手洗い所の床に男性が倒れていた。グレイのトレーナーにカーゴパンツ姿だった。
「なにがあったんですか?」
見物人の若者が、
「分かりません。ぼくが入ってきたら、すでにこの人が倒れてました」
楠警部は、倒れている男性のそばに屈んで呼吸と脈を確認する。両方とも確認できず、死んでいるのは明らかだった。男性の頭部周辺の床には血と思われる液体が付着していた。
辺りを見回すと、死者の右側にデッキブラシが落ちていた。そのブラシのヘッド部分には血が付いている。おそらくこれが凶器と思われた。
楠警部は立ち上がって警察バッジを見せながら、
「誰が見つけたんですか?」と見物人に聞いた。
少し間があってから、女性が一歩前に出てきた。三十代半ばくらいの女性だった。
「わたしです」女性の表情は青ざめている。
「何時ごろ、見つけたんですか?」
「三分くらい前です」
楠警部はトイレの奥の方に視線をやって、
「ここは男性用のトイレですけど、どうして女性の方がここへ?」
「子どもがトイレに行くって言うんで、わたしは外で待ってたんです。でも、なかなか出てこないので、様子を見に入ったんです。そしたら、床にこの方が倒れてたんです」
その女性の背後から小学二年生くらいの男の子が顔を出した。楠警部は身を屈めて話しかける。
「きみがトイレに入った時、この人はすでにここに倒れてたのかい?」
「うん。この人、具合が悪いのかと思ったけど、トイレ我慢できなくて話しかけなかった」
「きみがここに来た時、誰かいたかい?」
「誰もいなかったよ」
楠警部は立ち上がって、母親の方を向いた。
「ここに入る時、誰かとすれ違ったりしましたか?」
「いいえ、誰ともすれ違ってないですし、誰もいませんでした」
「お話ありがとうございました」
楠警部は野次馬たちを現場から遠ざけると、署に連絡して応援要請をした。彼らが到着するまで、トイレの中を調べてみたが、たいして得るものはなかった。桐生は相変わらず、血なまぐさいものは嫌いなので、現場から離れたところに避難していた。
T署の捜査員が到着して型通りの捜査をおこなった。被害者の死亡推定時刻は午後十二時十五分ごろ、致命傷は頭部に受けた傷で、被害者の横に転がっていたデッキブラシが凶器と断定された。
被害者のカーゴパンツのポケットには財布があり、中に運転免許証があった。それによると、名前は神田海人。三十六才。
楠警部はその名前を見て、見覚えがあるのに気づいた。神田海人はなんとホロームーンのメンバーの一人だった。ホロームーンは六日前の宝石店での強盗容疑で指名手配されている。
楠警部は、トイレの陰に隠れている桐生を呼んだ。
「おい、桐生、こっちに来い。もう死体は運び出したぞ」
桐生はおよそ警察官らしくない、おどおどした様子で近づいてきた。
楠警部は、被害者がホロームーンのメンバーだったことを話した。
「じゃあ今日、チンパンジーのロンを殺してダイヤを回収しようとしたのは、その神田っていう男の可能性が高いですね」
「たぶんな。でもどうして殺されたんだろう。それもトイレなんかで」
「たしかホロームーンは三人組ですよね。ぼくが思うに、六日前にここで死体となって見つかった男は、神田に殺されたんですよ。おそらく、窃盗品を巡る仲間割れでしょう。そしてその神田は、もう一人のホロームーンのメンバーに殺されたんだと思います。これもやっぱり窃盗品を巡るトラブルでしょう」
二人が事件について話していると、遠くの方から、
「ボウリングおじさーん」という聞き慣れた声がした。声のする方を見ていると、セイラが全速力で向かってくる。猛暑の中走ってきたので、楠警部たちのもとに着いた時には顔から汗がふき出していた。
「これ見て」
セイラは手に持っているものを二人に見せた。それはトランプくらいの大きさのカードで、カードには雲に隠れた三日月が描かれている。ホロームーンが犯行現場に残していくカードにそっくりだった。
「どこで見つけたんだ?」楠警部が驚いてたずねる。
「セイラたちが乗ってきたバスの中」
「なんだって!」
「これってホロームーンとかいう強盗団が現場に残していくカードでしょ。これがバスの中に落ちてたってことは、乗客の中にホロームーンのメンバーがいるんだよ」
「このカードが偽物じゃなければな」楠警部はカードを受け取ってよく眺めてみた。それから指紋検査キットを使って調べてみたが、指紋を検出することはできなかった。
「ところで、おじさんたち、ここでなにしてたの?」
楠警部は、殺人事件が起きたこと、被害者がホロームーンのメンバーだったことを話した。
「じゃあ、バスの乗客の中に、犯人がいるんだよ」
セイラの発言には飛躍があるような気がして、その関連性を考えていると、
「さっそく乗客を調べようよ」とセイラは目を輝かせている。
楠警部は急いで園長を捜し出し、園内アナウンスを頼んだ。園長は度重なる事件の発生に意気消沈していたが、引き受けてくれた。
まもなく園内アナウンスが流れ始めた。
「お客様にご案内します。本日、カモメバスツアーで当動物園にお越しのお客様は至急、バスまでお戻りください。繰り返します…」
十分足らずで、乗客二十人全員がバスに戻ってきた。その中には、セイラといっしょに降りてきた磯崎と上原の姿もある。乗客たちは警察の指示に素直に従う者もいれば、愚痴や不満を言う者もいた。
「わたしたち楽しんでる最中なのに、どうしてバスに戻って来なきゃいけないんですか」磯崎は不満を隠さない。
楠警部は丁寧に事情を説明した。それから身体検査と持ち物検査をおこなうと告げた。
検査の結果は、なんの手がかりも得られなかった。そのことがさらに乗客たちの不満を増大させた。
「もういいですかー」上原は検査を終えたバッグを受け取りながら言った。
「自由にしてくださって結構です」
楠警部は汗だくの顔を拭きながら呆然としたようにバスの前に突っ立っている。そんな楠警部にセイラが声をかける。
「現場をもう一回、調べてみよう」
「あそこはもう調べたよ」
「いいから」
セイラは強引に楠警部を引っぱって園内に入っていく。事件があったためだろう、園内は緊張した雰囲気に包まれていた。
現場となった公衆トイレには見張りの警察官が立っていた。楠警部が、
「もう一回ここを調べる。この子が調べたいんだって」と言って、セイラを指さすと、その警察官は、
「了解しました」と言って一歩横にずれたが、その顔には、なんだこのガキはという蔑みの表情が現れていた。
セイラはまずトイレの周囲を一周してみた。
「なんか人に見られそうなところだね」と独り言をつぶやいてから、トイレの中に入る。
被害者が倒れていた床には白線で人型が描かれている。そのそばには掃除用具を入れるロッカーが設置されている。そこに凶器として使われたデッキブラシが立て掛けられてあった。
「犯人はなんでこんなものを使ったんだろう。凶器は持っていなかったのかな」
一通りトイレの中を調べたが、手がかりは見つからなかったようだ。今度は外に出て、正面にある茂みに近づき、屈んで手を入れて調べ始めた。背後から楠警部が、
「セイラちゃん、なにを探してるんだ?」と聞いた。
「犯人が持ってきたかもしれない凶器。ないなあ」
楠警部とそんな会話を交わしながら女子トイレの方まで進んだ時、セイラが、
「あっ」と声を出した。ゆっくりと茂みから手を出した。その手にはスマホくらいの大きさの黒い物体が握られていた。
「これってあれじゃない。ボウリングおじさんが持ってた動物と話せるやつ」
「そうだ。これはアニマリンガルだ」
桐生も覗き込む。
「そうですね。アニマリンガルですね。殺人犯が落としたんでしょうか」
「そうらしいな」
楠警部は、アニマリンガルは北芝というメーカーが製造したこと、ホロームーンはそこに強盗に入り、アニマリンガルを二つ盗んでいったこと、それはその二つしかないことをセイラに話した。
セイラは、
「二つしかないんだ。おじさん、これの指紋の検査してくれる?」
楠警部は指紋検査キットを使って、アニマリンガルの指紋を調べた。しかし、指紋は一つも付いていなかった。
「おじさん、被害者の持ち物のリスト持っている?」
楠警部はスマホのメモ帳を開いた。
「免許証、財布、ここの入場券、絆創膏、目薬、タバコ」
「手袋みたいなものはないんだね」
「ないな」
「入場券の入場時間わかる?」
「十二時二分だ」
「十二時過ぎかあ」右手の人差し指と中指を額に当てて考えこむセイラ。しばらくそのポーズでいたが、再び楠警部に向き直って、
「それって使えるかな」
「どうだろうな」楠警部は側面にあるボタンを押した。すると、ボタンの上にある部分が緑色に光った。
「使えるみたいだよ」
それを聞いたセイラは、楠警部からアニマリンガルをひったくると、駆け足でサバンナエリアの方に向かった。二人の刑事もその後を追う。
セイラはアニマリンガルを使って片っ端から動物に話しかけていった。セイラが聞いていったのは、今日、人間に話しかけられたかどうか、話しかけられたとしたら、なにを聞かれたのか、その人間はどんな格好をしていたのかというものだった。
何匹かの動物が話しかけられたと答えた。聞かれたのは、六日前に黒いコートを着た人間から宝石を預かってほしいと頼まれなかったかどうかというものだった。どの動物もそんな人物に話しかけられてはいないと答えた。
さらに、セイラは人間に話しかけられた時間を聞いた。動物たちは時計を理解できるわけではなかったが、動物園の中だけで鳴る昼の時報の前であることで一致していた。動物たちの話を総合すると、その人間がアニマリンガルを使っていたのは午前十一時四十分ごろから正午前らしい。
格好については、やはり黒っぽいコートを着ていたらしい。顔はマスクをしてサングラスをしていたようで、細かい特徴までは分からなかったと動物たちは証言した。
一通り動物に話を聞いた後、セイラは再び、考えるポーズをとってしばらく動かずにいた。やがて、
「っていうことは」とつぶやいてから、モンキーエリアの方に小走りで向かった。
屋台が並ぶ広場に来ると、楠警部が、
「セイラちゃん、ちょっと休んだらどうだ。ソフトクリームおごってやるよ」と言ったが、セイラは楠警部の言葉を無視して、広場の中央にいる猿の着ぐるみの方に歩いていく。
着ぐるみの正面に来ると、
「着ぐるみさん、聞きたいことがあるんだけど」
客と話してはいけないルールでもあるのか、着ぐるみは無言のまま立っている。
「ちょっとだけだから」
着ぐるみは首を横に振る。
「これは殺人事件の捜査の一環なの。あそこで子どもみたいにソフトクリーム食べてる人は警察の人なんだ。おじさーん、ちょっと来てー」
子どもみたいにソフトクリームを食べながらやってきた楠警部に、
「この人と話したいんだけど」
楠警部は口の周りについたクリームを舐めながら警察バッジを見せる。着ぐるみはそのバッジを見て驚いたらしく、首を縦に振った。
「じゃあ、こっちに来て」
セイラが先頭になって、広場の端にある東屋のような建物に向かった。そこには他の客はいなかった。着ぐるみは辺りを見回してから頭の部分を脱いだ。中に入っていたのは二十代の少しぽっちゃりした男性だった。
「あー、暑い。で、話ってなんですか?」
「今日はずっとこの着ぐるみを着てたの?」
「いえ、休憩の時に脱ぎました」
「それは何時だった?」
「たしか十一時半から十二時半だったと思います」
「休憩の時はどうしてたの?」
「これを脱いで、昼ご飯を食べに動物園の外に出ました」
「着ぐるみをどこに置いておいたの?」
男性は少し言いにくそうにしていたが、
「ほんとはスタッフルームに置いとかなきゃいけないんですけど、めんどくさいから、おれはあそこにある物置みたいなとこの脇の地面に置いといたんです」男性は右の方向を指さした。十メートルほど先に小さな建物が見える。
「じゃあ、この着ぐるみは十一時半から十二時半の間は、誰でも手にすることができたんだね」
「そうだと思います」
「それともう一つ、この猿の着ぐるみは何体あるの?」
「これだけですよ」
「ありがと、確認したかったのはそれだけ。お礼にこのおじさんがソフトクリームをおごってくれるって」
「お、おれがおごるのか?しようがないな。シャインマスカット味がおすすめだぞ」
楠警部と着ぐるみの男性がソフトクリーム屋に向かう。その背後からセイラが、
「そうだ、おじさん、防犯カメラの映像ってどこで見れるの?」
「園長室で見れるよ」
セイラは園長室の場所を聞くと駆け足で向かった。園長室の扉を開けると、うつむいて椅子に座っている園長の姿が見えた。セイラが入っていくと、その生気のない顔を上げた。
セイラは警察の捜査の一環で、防犯カメラの映像を見たいと話した。
「どのカメラの何時の映像を見たいんだい?」
「モンキーエリアの広場にあるカメラで、時間は十一時半から十二時半」
映像の再生が始まるタイミングで、ちょうど楠警部と桐生が入ってきた。倍速で再生していく。映像には先ほどの猿の着ぐるみと客が映っている。猿の着ぐるみは、次々にやってくる客に愛想を振りまいたり、握手したり、いっしょに写真を撮ったりしていた。映像にはこれといって不審なものは映っていない。
再生を始めてまもなく、セイラが、
「あっ」と声を出した。
映像にはカモメバスの乗客たちの姿が映っていた。乗客たちは広場に来て、屋台の方に行ったり、着ぐるみの近くに来て、スマホで写真を撮ったりしている。
「カモメバスの人たち、みんないるのかな」セイラは画面に映っている乗客たちを数える。
「磯崎さんと上原さん、それに虎太郎くんがいないみたい」
映像にはその後も、とくに不審なことは起こらなかったが、広場の客が一時的に途絶えた午前十一時三十八分に、着ぐるみは左の方に歩いていって、画面から消えた。その後、着ぐるみがそのカメラに映ることはなかった。
映像を見終えるとセイラは少しがっかりしたように肩を落とした。それを見た楠警部は、
「犯人は映ってなかったみたいだな。まあそんなに落ち込むなよ。カメラの映像を見ただけで事件が解決できたんじゃ、我々警察の立場がないってもんだ、ははは」
セイラは腕時計を見た。午後の三時になろうとしている。
「そろそろバスに戻らなきゃ」
重い足取りでバスが停まっている駐車場にやってきたセイラは、
「あとちょっとで犯人がわかったんだけど」と悔しそうにつぶやく。
そんなテンションの低いセイラの肩を叩きながら楠警部は、
「気にするなって。あとはおれたちに任せろ」
バスの乗車口には、磯崎と上原がセイラを待ってくれていた。ふたりはセイラを見つけると、手を振ってきた。
「セイラちゃん、急いで。そろそろ出発するって」磯崎はパンダのぬいぐるみを持っていた。おそらく園内のショップで買ったのだろう。
近づいてみると、磯崎に違和感を覚えた。しかし、すぐにその違和感の正体が分かった。磯崎はメイクを落としていたのだ。すっぴん姿も美人だ。
「次はT市海浜タワーに行くんですって」上原も声をかけてくる。上原にも変化があった。麦わら帽子をかぶっていたのだ。やはり園内のショップで買ったのだろう。さらに右手の甲に絆創膏を貼っていて、それを気にしていた。
セイラが来ると、磯崎と上原はステップを上がって車内に入っていく。セイラも彼女たちに続いて上がろうとしたが、そこで動きを止めた。
「どうしたの、セイラちゃん」上原が振り返りながら呼びかける。
「そうか、分かったよ」
「なにが分かったっていうんだ?」楠警部が背後から聞く。
「犯人が分かったの」
「早っ。ほんとか?」
「うん」
「誰なんだ?」
「ただで教えてもらおうとしてるの?」
「なにが欲しいんだ」
「さっきのダイヤ」
「ケーキをおごってやるって言ったろ」
「やっぱりダイヤが欲しいの」
楠警部はため息まじりに、
「分かったよ」と言った。




