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事件発生から六日目に、D市動物園は五日間の休園を経て再開した。風評被害を懸念した園長が、警察に頼み込んでメディアをシャットアウトしたので、園内で殺人事件が起きたことは世間には広まらなかった。
動物園の正門前には長い行列ができていた。その中に楠警部と桐生の姿があった。彼らが動物園に来たのは捜査のためではなく、純粋に遊びに来たのだった。
長い行列ができている理由は、五日間の休園の売り上げ減をカバーするために、先着百人に無料入場券を配ったり、園内の飲食店の割引券を配ったり、パンダとのツーショット写真を無料で撮影できたりといったキャンペーンをしたからだった。
無類のパンダ好きである楠警部が飛びつかないはずがなく、仕事そっちのけで行列に並んでいる。
並んでいる間、楠警部はボウリングのエアー投球をしては首を傾げたり、うなずいたりして時間を潰している。一方の桐生は、スマホでゲームをしながら、ハンカチで顔を流れる汗を拭いている。まだ午前九時前だというのに、気温は三十度を超えていそうな暑さだ。
桐生はリュックのチャックを開けると、中から日傘を取り出した。それを見た楠警部は、
「おまえ、なに日傘なんてさしてるんだよ、女子かよ」
「長時間、太陽の光を浴びてると、肌が赤くなって皮がむけてくるんです」
「ひ弱なやつだな」
開園時間になると、少しずつ行列が動き出す。並んでいる人は様々で、若いカップルもいれば、親子連れ、シニア世代、一人で来ているおっさんなんかもいる。
駐車場にも次々と車がやってくる。何気なく見ていると、大きな観光バスが入ってきた。市内の観光名所を巡るバスツアーなのだろう。
停車したバスから様々な人が降りてきた。小学生の集団、若い女子、なぜか不機嫌そうな顔のおっさん。それからオレンジ色のワンピースを着たツインテールの中学生くらいの女子。
「あれ?あれって、おまえの妹じゃないか」楠警部は、バスから勢いよく降りてきたそのツインテールの女子を指さす。
桐生はスマホから顔を上げて楠警部の指さす方向を見る。
「セイラだ」
「やっぱりそうか」
その女子は両脇に女性を従えて、おしゃべりしながら歩いてきて、行列に並んだ。先に並んでいる楠警部たちを見つけると、
「お兄ちゃん、こんなとこでなにしてるの?あ、ボウリングおじさん、こんにちは」
桐生は日陰に来たので日傘を畳みながら、
「今日は仕事が休みだから家でゆっくりしたかったんだけど、楠さんに強引に連れてこられて」
「強引って、人聞きが悪いな。おれは強制はしてないぞ。ただ、パンダを見たいならいっしょに来るかって誘っただけだ」
「お兄ちゃんたちもパンダが目当てだったんだ。セイラたちもパンダと写真を撮りに来たの」
セイラの両隣の女性たちがうなずく。
「セイラ、そちらの方たちは?」桐生が聞くと、
「バスの席が隣りどうしだったから、友達になったの。こちらが磯崎郁美さんで、こちらが上原みかんさん」
磯崎郁美と紹介された女性は、三十代半ばくらいで、宝塚の俳優のような整った顔立ちをしている。小顔なので八頭身くらいあるように見える。濃いめのメイクをしていて、このまま舞台に立てそうな感じだ。黒のスーツ姿は意識高い系のオーラを出している。
上原みかんと紹介された女性は、二十代後半くらいで、美人というよりはメイドカフェで働いているような癒し系の雰囲気。ナチュラルメイクで、頬のチークが印象的だ。白いキャミソールにフリフリのついたスカートをはいている。「こっちがセイラのお兄ちゃんで、ドラキュラみたいな昼夜逆転生活をしていて一応、警察官。で、そっちにいるムダに背の高い、ムダに彫りの深いおっさんが楠警部」
楠警部と桐生は、その紹介はどうなんだと思いながら、彼女たちに会釈する。
「ムダに彫りが深いって、こう見えても昔、役者っぽいことをしてた時期があるんだ」
「エキストラのちょい役でしょ。あ、前が進んだから歩いて」
セイラの毒舌には慣れているが、それでもちょっと傷つきながら、二人の刑事は前に進む。
入り口ゲートまで進み、スタッフから無料入場券を受け取る。他の客の目的もやはりパンダを見ることだったらしく、パンダ舎の方向に行列が続いている。 根気強く列に並ぶこと二十分、ようやく楠警部たちはパンダ舎の前にやってきた。客たちは順番でパンダとのツーショット写真を撮っている。
並んでいる間、楠警部はセイラに、六日前にここで殺人事件が発生したこと、その捜査の進捗具合について話して聞かせた。警察がなぜ一般人に捜査の内容を教えるのかというと、セイラは楠警部も一目置く、推理力の持ち主だからだ。今までにも数件の難事件を楠警部に代わって解決していた。
「次の方どうぞ」動物園のスタッフが声をかける。
「やっときたか」
楠警部はこれから大事な写真でも撮るかのように緊張した面持ちでネクタイの位置を直して、カメラを構えるスタッフの前に立つ。
「じゃあ、お願いします」
楠警部はにっこりと気持ち悪い笑みを浮かべると、何を血迷ったのか、両手を胸の前に上げて、ハートの形を作った。これには舎の中のパンダも思わず二度見してしまった。
行列の中からは、『気持ち悪っ』とか『ヤバっ』などの言葉が飛び交ったが、楠警部はそんなヤジを気にする気配もない。
楠警部の後に桐生、セイラたち女性陣と続き、写真撮影が終わると、パンダをじっくり鑑賞する間もなく歩き出さなければならない。すると突然、セイラが、
「かわいい!」と叫び声を上げて駆け出した。
セイラが走っていった方向に目をやると、そこにはパンダの着ぐるみが立って、客たちに愛嬌をふりまいていた。セイラはその着ぐるみに向かって突進していくと『かわいい』と言って抱きついて、握手してもらうために右手を差し出す。
着ぐるみは戸惑ったように一瞬、動きを止めたが、右手を前に出した。
「なにこれ、握手できないじゃん」
着ぐるみの手の部分は丸まっていて指がついていないので、握手することができない。しかたなくセイラは握手の代わりに、両手で着ぐるみの手を触った。
しばらくの間、セイラが着ぐるみとじゃれつく姿を見届けた後、楠警部たちは、その先の鳥類エリアを抜けて開けた場所に出た。
そこはモンキーエリアで、六日前に黒いコートの人物とチンパンジーが話していたという類人猿舎が右手に見える。
広場にはアイスクリームやたこ焼きなどの屋台が出ている。その近くに猿の格好をした着ぐるみの姿も見える。
着ぐるみを見つけたセイラはイノシシのごとく突進していき抱きついた。猿の着ぐるみは反動でよろめいた。それからセイラは右手を出して握手してもらった。
「さっきの着ぐるみと違って指がついてるんですね」桐生の発言に、猿の着ぐるみは黙ってうなずく。
少し遅れてやってきた楠警部が、
「ここにも着ぐるみがいたのか。桐生、おれのスマホで写真を撮ってくれ」
「どうせまた胸でハートの形を作るんでしょ」
「今度は違うポーズを考えたんだ」楠警部は強引にスマホを桐生に渡す。
楠警部は猿の着ぐるみの横に並ぶと、なぜか後ろを向いてしまった。
「なにしてるんですか」と桐生が聞く。
楠警部は上半身だけ振り向いて、さらに右手をグーの形にして手首を曲げて肩の高さに上げた。おそらく、まねき猫をイメージしているのだろう。桐生は胃に不快感を覚えながら写真を撮った。楠警部はすぐに写真の写り具合を確かめる。
「うまく撮ってくれたな」
桐生は内心でピンボケさせてやればよかったと思った。セイラが見当たらないので広場を見回してみると、アイスクリーム屋の前に立っていた。隣りには園長の姿があった。アイスを舐めながら二人でなにやら話している。それを見た楠警部が、
「おれもアイスを食いたい」と言ってアイスクリーム屋に向かおうとした。
その時、類人猿舎の横にある狭い通路から、飼育員の服装をした女性が広場の方に走ってきた。その表情から、何かただならぬ事があったようだ。その女性は園長のもとに駆け寄ると、
「大変です。ロンがし、死んでいます」と息を切らしながら報告した。
その言葉は楠警部たちにも聞こえた。二人は園長のもとに向かう。
「ロンっていうのはチンパンジーの?」楠警部がたずねる。
「そうです」その飼育員の胸元には『槇原』という名前が記されていた。ロンが犯人に仕立てようとした女性はこの飼育員に違いない。
飼育員の話を聞くと、園長は駆け出していった。楠警部と桐生も後に続く。園長は類人猿舎の横の狭い通路を走っていった。通路の両側は壁になっていて、突き当たりに来ると、右に通路が伸びている。その通路を進むと、やはり突き当たりになっていて左側には扉があり右には通路が伸びている。
園長は扉には目もくれず右に曲がる。その先に縦横七メートルほどの檻があった。
その檻の中央に、一匹のチンパンジーが倒れていた。扉は開いている。園長を先頭にして檻の中に入る。ロンの周囲の床は赤黒く染まっていた。
「なにがあったのか詳しく話してくれ」園長は顔を強張らせている。
槇原は息を整えながら、
「わたしが五分ほど前に、ロンの様子を見にここに来てみたら、ロンが床に倒れていたんです。声をかけても起き上がる気配がないので、体調が悪いのかと思ってよく見てみると、床に血だまりが見えたんです。これは大変だと思って、急いで鍵を取りに備品室に行きました。鍵を取ってきて扉を開けてロンのそばに行ってみると、息をしてませんでした。背中に刺し傷が見えたので、誰かに知らせなきゃと思って広場に走って行きました」
一同が死体となったロンを眺めている中、楠警部がロンの傍らに屈んで体を調べる。背中に刃物でつけられたような傷があり、そこから出血している。他には外傷はないようだった。一通り調べると扉の方を向いて、
「鍵を取ってきたと言いましたが、鍵は閉めてあったんですか?」と槇原に聞いた。
「はい、それは間違いありません」
「そうすると密室状態だったわけですね」桐生の発言に、その場にいた者ははっとして目を見開いた。
「そういうことになるな。ところで凶器はどこにあるんだろう」楠警部は立ち上がって檻の中を調べ始めた。
しかし、檻の中や通路に凶器と思われるものはなかった。また、血だまりはロンの周囲にだけあり、そこから離れた床には見当たらなかった。桐生は扉に向かい鍵を調べる。鍵はなんの変哲もない南京錠だった。
鍵の周辺を調べてみると、南京錠のすぐ左横にある鉄格子の一部に、赤い染みが付いているのを見つけた。それに指をつけてみると、どうやら血のようだった。
鉄格子の他の箇所も調べてみたが、血らしきものは付いていなかった。
園長は引き続き槇原から話を聞いている。
「誰か不審者を見たりしなかったかね」園長の問いに、
「ロンが死んでいるのを誰かに報告しようと、ここから走って広場に向かおうとした時、類人猿舎の前に男の人が立っていたんです。わたしがその人の横を通り過ぎようとしたら、声をかけてきました。サバンナエリアの方で子どもが倒れている。たぶん熱中症だと思うから、様子を見にいってほしいと言われました。わたしはロンの報告をするか、子どもの様子を見にいくか迷ったんですけど、お客様の方が大事だと思って、サバンナエリアに向かいました。でもサバンナエリアに倒れている子どもはいませんでした。近くにいたお客様に話を聞いてみたんですけど、そんな子は見なかったそうです」
「その男はうそをついたわけか」
「たぶんそうだと思います」
「なんでそんなうそをついたんだろう。その男の特徴はどんなだった?」園長の顔はますます強張ってきている。
「帽子を目深にかぶっていて、サングラスにマスクをしてたので、顔は分かりませんでした。それにこんなに暑いのにコートを着てました」
コートという言葉を聞いて二人の刑事は目を見合わせた。
「もう少し詳しくその男の特徴を聞かせてもらえますか?」と楠警部が促したが、
「今言ったことくらいしか分かりませんでした。ロンのことで気が動転してまして」
たしかにそうだろうと楠警部は思って、それ以上聞くのはやめて、死んでいるチンパンジーに視線を移す。すると、なにを考えているのか、セイラが屈んでロンの口元を調べている。
「セイラ、あんまり触るんじゃない。犯人の証拠が消えちまうかもしれん」
セイラは楠警部の注意を無視してロンの口の中に手を突っ込む。セイラの手が口から抜き出された時、その手には眩しく輝くものが握られていた。
「これなんだろう?」
セイラは皆に見えるように、取り出したものを手のひらに載せた。それは飴玉くらいの大きさの宝石だった。それを見た一同は驚いて、目が釘付けになった。
「それは盗難品のダイヤだ!」
楠警部は三日前に、ホロームーンによる強盗被害を受けた宝石店で、盗難品のサンプル画像を見せてもらっていた。セイラが手にしているダイヤは、それとそっくりだった。
「ロンがこれを口の中に入れて隠し持っていたんですね」桐生の発言に、
「なぜロンがそんなものを持ってたのか」園長が無惨な姿のロンを見つめながら言った。
「六日前に、ここで殺人事件があった時間帯に、ロンはコートの人物と話してましたよね。その時に、ロンはその人物からこのダイヤを預かるように頼まれたんじゃないですか」桐生が意見を言うと、すぐに楠警部が、
「こいつはやっぱり、うそをついてたわけか。バナナをくれたなんて言いやがって。今日、槇原さんが見た人物はホロームーンのメンバーに違いないな。動物園が再開されたんで、ダイヤをロンから回収しようとやってきた。だが、なんらかのトラブルが起きて殺されてしまった。おそらくロンがダイヤを返そうとしなかったんだろう」
楠警部は手を出してセイラからダイヤを受け取ろうとした。だが、セイラは手を引っ込めてしまった。あっけにとられた楠警部は、
「それを渡すんだ」と一歩近づく。
「いや」
セイラの予想外の返答に、
「パードン?」またしても楠警部の日本語アクセント強めの英語が飛び出した。
「ノー、アブソリュートリー、ノー」とセイラも英語で対抗する。
「嫌だって、どういうことだ?」
「これはセイラが見つけたから、セイラのものなの」と言って、一歩後ろに下がる。
「そのダイヤは事件に関係があるんだから、わたしに渡しなさい」楠警部はさらに一歩、セイラに近づく。
「近寄らないで」
セイラは檻の中を全力で逃げ回る。楠警部は逃げるセイラを追いかけ始めた。しばらく檻の中は、
「止まりなさい」
「いや、来ないで痴漢」
「誰が痴漢だと」
「これ以上近づいたら、警察呼ぶよ」などの声が飛び交った。
桐生は二人にはかまわずに、槇原に声をかけて檻の入り口付近まで来てもらった。
「ここの鍵の近くに付いている赤い染みなんですけど、気づきましたか?」
「いえ気づきませんでした。さっき見た時にはなかったと思います」
「それと、この檻の鍵って普段、どこに置いてあるんですか?」
「こちらです」
槇原は通路を戻っていった。正面には扉がある。さっき園長が目もくれずに通り過ぎた扉だ。槇原はその扉の前で止まると、ノブを回す。鍵はかかっていないようだった。
中は六畳ほどの広さがあり、園内で使う大小様々な道具が置かれていた。槇原は左側の壁を指さし、
「ここにかけてあります」と言って、鍵を一つ手に取った。
壁にはざっと見ただけで、二十以上の鍵がかけられていた。鍵自体は似たような形だが、持ち手の部分はハートやクローバーなどトランプの絵柄の形になっている。
「この形はなにか意味があるんですか?」桐生が鍵を眺めながら聞く。
「これは以前、ここの飼育員だった方が、各エリアごとにわかりやすくするためにトランプの絵柄にしたみたいです。ハートは鳥類エリアで、ダイヤはモンキーエリア、クローバーはサバンナエリア、スペードはマリンエリアです」
桐生は飼育員が持っている鍵をあらためて眺めた。その鍵はクローバーの形をしていた。
「あれ、その鍵はモンキーエリアの鍵なのに、クローバーなんですか」
「はい。ちょっと前に、あの檻の鍵を紛失してしまったんです。新しく鍵を作ってもらった時に、ダイヤの形の持ち手がなくて、これだけクローバーにしたんです。でもクローバーのところに、チンパンジー舎って書いてあるので間違ったりはしません」
それを聞いて、桐生は鍵を見つめながら少し考えた。それから、
「その鍵はどこにかけてありましたか?」とたずねた。
「ここです」槇原はクローバーの形をした鍵の列の中で、空いている部分を指さした。他にも何か所か空いている部分があった。
桐生はしばらく鍵の列を眺めていた。その後、視線を槇原の方に向けて、
「どこにも立ち寄らずに、まっすぐに檻からここに来たんですよね」
「それなんですけど、すぐにはこの部屋に入っていないんです」
桐生は槇原の顔をまじまじと見つめた。
「わたしが鍵を取りにここに来た時に、さっき話したコートの人に声をかけられたんです。それで広場の方に行きました。たぶん、五分くらいは不在にしてたと思います」
その発言を聞いて桐生は鋭い目つきになった。しばらく沈黙した後、
「密室の謎は解けました。いったん、檻に戻りましょう」
桐生と飼育員が檻に戻ってみると、あきれたことに、まだ楠警部とセイラの追いかけっこが続いていた。
「近寄るなー、セクハラ刑事」
「早くそれを渡すんだ。そうだ、渡してくれたらケーキをおごってあげよう」
その言葉はセイラに効いたらしい。セイラはぴたりと足を止めた。
「駅前に美味しいケーキ屋さんがあるの。一つ千円するんだけど、おごってくれるの?」
「千円でも二千円でもおごってやるよ」
「やったー」セイラは素直にダイヤを差し出した。
「あの、楠さん、この檻の密室なんですけど」桐生が控えめに話しかける。
「桐生、どこに行ってたんだ?」
「ここの鍵を保管している部屋にいました。密室の謎は解けましたよ」
「早っ。もう解けたのか」
「はい。この檻の鍵は南京錠なんですけど、その南京錠のすぐ横の鉄格子の一部が赤くなっていました。少し舐めてみると、それは血でした。以前にはなかったということなので、その染みは今日付いたんです。誰が付けたのか。それは殺されたロンが檻の中から手を出した際に付いたんです。どうしてそんなことをしたのか。それは檻の中から手を出して南京錠を開けるためです。つまり、鍵はロンが持っていたわけです」
「断言できるのか」
「はい。もし、ロンが檻の外側から鍵を開けようとしたならば、鉄格子の間に手を入れる必要はないです。鉄格子の間に手を入れなければ、そこに血の染みが付くこともないです。それに、ロンの殺害者が鍵を開けようとしたならば、外側から開ければいいので、鉄格子の間に手を入れる必要はなく、従って、血の染みは付かないでしょう。やっぱりロンが内側から開けたんです」
「なるほど。それでどうなるんだ」
楠警部だけでなく、その場にいた者たちは興味を持って桐生の話に耳を傾けている。
「ロンが血の染みを付けたということは、ロンが鍵を開ける時にはすでに、床には血だまりができていたことを示しています。でもこの血だまりはロンの体から流れたものでしょうか。もしそうなら、血だまりから檻の入り口までの経路上に血痕があるはずですけど、そんなものは見当たりません。つまりあの血だまりはロンのものではなく、他の動物の血だったわけです。言い換えると、槇原さんが、倒れているロンを見た時、ロンはまだ死んでいなかったんです」
「死んだふりをしてたのか」
「そうです。槇原さんが園長を呼ぶためにこの場を離れ、広場に向かったのを確認すると、ロンは立ち上がって鍵を開けました。檻から出ると、そのまま通路を歩いていって備品室に向かいました。そこに鍵を戻したんですけど、その際に、ロンは間違った場所に戻してしまったんです。なぜそう言えるかというと、この檻の鍵の持ち手の部分はクローバーの形をしてるんですが、この持ち手はサバンナエリアの鍵に共通している持ち手なんです。モンキーエリアの鍵の持ち手はダイヤなんです。少し前に、ここの鍵が紛失して新しく鍵を作った時に、ダイヤの持ち手がなかったので、クローバーで代用したということです。持ち手の部分に、チンパンジー舎と書いて区別できるようにしてあります。でもこの鍵はサバンナエリアに戻されていました。正しくはモンキーエリアに戻されるはずです。つまり、この鍵を戻した者は、持ち手に書かれているチンパンジー舎という言葉を理解できなかったために、同じクローバーの持ち手の場所に戻してしまったんです。それは人間ではなくて、チンパンジーが戻した証拠です」
「ロンが鍵を戻したのか。それでロンが鍵を備品室に戻す時に、飼育員に見られないようにするために、ロンの殺害者は飼育員を一時的にこの場から遠ざけておこうと、あんなうそをついたってわけか」
「はい。備品室に鍵を戻したロンは、ここに戻って来て檻に入ろうとしますが、その時に犯人がやってきて殺してしまったんです。その後、犯人は鍵を閉めて立ち去ったんです」
「でもなんだって犯人は檻を密室にする必要があったんだ?」
「それははっきりとは分かりません。密室にすることで我々を悩ませて時間稼ぎをしたかったのかもしれないし、犯人には密室にするつもりはなく、偶然そうなったのかもしれません。いずれにしても、犯人は六日前に事件を起こしたコートの人物で、ロンに渡しておいたダイヤを回収するために、今日ここに来たんでしょう。でもロンは渡そうとしなかった。ダイヤを返す代わりになにかを要求したんでしょう。それで犯人が怒ってロンを殺してしまったんです」
楠警部は手にしているダイヤを眺めた。
「バナナをもらったなんて、うそをつきやがって。これを犯人が回収していないからには、まだ園内にいるかもしれんな。客を片っ端から調べてみるか」
「け、警部さん、あまり事を荒立てないようにしていただきたいんです。なにせ六日ぶりに再開したばかりなもので」園長の声はほとんど泣き声に近かった。
「大丈夫です。我々に任せてください」
桐生の話を興味なさそうに聞いていたセイラは、
「走り回って疲れちゃったから、バスで休憩してこよう」と言い残して檻から出ていった。




