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楠警部は、けたたましいアラームの音で目を覚ました。慌ててスマホを手に取り、解除する。時刻は午前八時。背伸びをしながら、前方に視線を向けると、コンビニ袋を持った桐生が歩いてくるところだった。
二人は車内でコンビニ飯を胃に押し込むと、さっそく捜査を始めた。まず、昨夜の十一時ごろから、日付が変わって二時ごろまでの間に、動物園の周辺で不審な人物を目撃した者がいないか聞き込みをした。
約二時間の聞き込みの結果は徒労に終わった。動物園が駅や繁華街から離れた場所に立地しているため、人通りも少なく、民家もほとんどない。それでも、数人がその時間帯に動物園の周辺を通ったと証言したが、誰も黒いコートを着た人物は見ていないということだった。
まだ七月前だというのに、蒸し暑く、おそらく気温は三十度に迫っているだろう。二人は汗だくになりながら、パトカーに戻ってきた。
車内で小休憩をした後、チンパンジーの証言の真偽を確かめるために、槇原という飼育員の自宅に向かうことにした。園長に聞いたところでは、槇原は動物園から自転車で十分ほどのアパートに住んでいるらしい。
そのアパートはお世辞にも綺麗な建物とは言い難かった。所々、ペンキが剥がれ落ちていて、年代を感じさせる。側面の壁には『柏荘』とペンキで書かれていた。
アーチ状の入り口をくぐって、右端にある104号室の扉の前に立った。ドアチャイムを探したが、見つからなかったので、楠警部は扉を数回ノックした。まもなく、
「はーい」という声が聞こえた。
扉が開くと、二十代半ばくらいのショートカットの女性が眠そうな顔をしながら出てきた。パジャマ姿で、髪には寝ぐせがついていた。楠警部を見ると、意外そうな顔をした。
「我々はT警察署のものですが」
楠警部は、動物園で起きた事件について話して聞かせた。槇原はまだ事件について知らされていなかったらしく、驚きながら話を聞いていた。楠警部がアニマリンガルを使って動物たちに話を聞いていったことに言及すると、槇原は信じられないという表情を浮かべて、
「動物とほんとに話せるんですか?」
「はい、これを使えばできるんです。なにか動物がいれば実演できるんですけど。野良猫とかいませんか?」
「いないですね。警部さんがおっしゃるんなら、ほんとなんでしょう。でも、ロンが言ってたことはうそですよ」
「その時間はどちらにおられました?」
「昨夜は高校時代の友達と駅前のダーツバーで飲んでました」
「そのお友達とバーの名前を教えて頂けますか」
「はい」槇原は素直にそれらの名前を告げた。
「槇原さんを疑っているわけではないんですが、いちおう確認しなければならないもので。ご協力ありがとうございました」
さっそく駅前にあるダーツバーに向かった。店は雑居ビルの二階にあった。店の扉を叩くとすぐに開いて、長身で痩せ型の男性が現れた。耳に巻きついているような竜のイヤリングが印象的だった。その男性は意外そうな顔で楠警部を見る。
「店長はいらっしゃいますか」楠警部がたずねると、
「わたしですけど」
楠警部は事情を手短に話した。
「槇原さんは確かに昨日、来店されました」
「時間は何時頃でしたか?」
「たぶん、十一時半ごろに来店されて、日付が変わって二時過ぎまでいらっしゃったと思います」
「友人と来たそうですが」
「はい、女性の方といっしょでした」
「こちらに防犯カメラはあるんですか?」楠警部が扉越しに店内を覗く。
「あります」
防犯カメラの映像を確認したところ、店長の言う通り、昨夜の十一時半に槇原と思われる女性が、同年代の女性といっしょに店に入ってきた。二人はカウンター席に座った。途中、トイレか何かで五分ほど席を離れたことがあっただけだった。午前二時過ぎに、槇原と連れの女性は席を立ち、勘定を済まして店を出ている。槇原のアリバイは成立したのだった。
楠警部は店長に礼を言って店を後にした。パトカーに戻る途中に桐生が、
「あのチンパンジー、うそをついたようですね」となんの感情も込めずに言った。
「そうだな。ちょっととっちめてやるか」
楠警部はD市動物園に戻るや、管理室に向かっていった。扉を開けると、園長がソファで仮眠をしていた。扉が開いた音で園長は目を覚ました。目をこすりながら、動物園を五日間、休園することにしたと話した。
「霊長類舎の鍵を借りたいんですが」楠警部は壁に並んでいる鍵に視線を向ける。
「そこにあります。なにをするんですか?」
「ロンっていうチンパンジーがうそをついたんです」それだけ言うと、管理室を出て、まっすぐにパンダ舎の方向に走っていく。鳥類エリアを通り過ぎ、モンキーエリアにやってきた。
霊長類舎には数匹のチンパンジーがいて、楠警部が来ると、いっせいに彼の方を見た。楠警部は舎の横にある狭い通路を入っていく。コの字型に進んでいくと、その先に扉が見えた。入るときに、アニマリンガルの電源を入れておいた。
霊長類舎の中に入った楠警部を見て、広場で作業をしていた清掃員が、
「あ、スーツを着たチンパンジーだ」と叫んだ。
すると、間髪入れずに楠警部が、
「誰がチンパンジーじゃ」と反応した。
気を取り直して、チンパンジーに話を聞いて回る。
「おい、ロンっていうチンパンジーはどこだ?」高圧的な聞き方に、
「知らないわ」
「答えるもんか」
「あっかんべー」
と非協力的な返答ばかりだったが、その中で、
「ロンならあそこにいるよ」
子どものチンパンジーが、ある方向を指さした。そこには土管のようなものがある。そこまで歩いていって中を覗くと、うずくまっているチンパンジーがいた。
「おまえがロンだな」
「…」
答えないというのが、ロンに違いないと確信した楠警部は、土管の中に手を入れて、そのチンパンジーを引っぱり出した。楠警部は、おびえているチンパンジーの首に腕を巻きつけた。
「おまえ、うそをつきやがったな」
「ゆ、ゆるしてください」
「どうして、うそなんかついたんだ?」
この光景を見ている人は、異種格闘技戦みたいに見えただろう。
「そ、それは」
ロンが言いよどんでいると、楠警部はさらに強く首を絞めつける。
「おれ、槇原さん、嫌い。あの人、ここからいなくなればいいと思った」
「槇原さんを犯人に仕立てあげようとしたのか」
「そうです」
「彼女にはアリバイがあったんだよ」
「アリバイ?おれ、難しいことわからない。ごめんなさい」
「アリバイっていうのは、まあいいや。チンパンジーに説明しても無駄だ。とにかく槇原さんは犯人じゃない。へんな猿知恵出しやがって」猿じゃなくて、チンパンジーなんですけど。
「じゃあ昨夜、そこに立ってたコートの人物は誰なんだ?また、うそをつきやがったら、ただじゃおかんぞ」
「おれの知らない人でした」
「知らない人だと?とぼける気じゃないだろうな」楠警部はロンの脇腹を小突く。
「ほ、ほんとです。おれ、きのう寝つけなくて舎の中を散歩してました。そしたら、いきなりコートの人が走って来たんです。近づいてくると、話しかけてきました。その人は、おれと同じようなコートを着たやつがここに来たかって聞いてきました。ちょっと前に、同じようなコートを着た人が向こうの通路の方に走っていったのを見たんです。それを教えました。それだけです」
「そのときに、おまえはそいつからなにかもらっただろう?」
「教えてくれたお礼だって言って、バナナをくれました」
楠警部はロンの首を締め上げたまま、証言の信憑性を吟味する。カップルの話と矛盾はしていない。
「それでその人物はどうした?」
「あっちの通路の方に走って行きました」ロンは昨夜、死体が見つかった通路の方を指さした。
楠警部はロンを解放した。ロンは自由になると、すぐに土管の奥に引っ込んでしまった。
類人猿舎から出てきた楠警部に、桐生が、
「迫力のある異種格闘技戦でしたよ」
「おれのヘッドロックが炸裂って、やかましい。あのロンっていうチンパンジー、相当、槇原が嫌いだったようだな」
「結局、なにも得られませんでしたね。もう少し、チンパンジーたちに話を聞いてみますか」
「いや、ロン以外のチンパンジーはなにも知らないだろう。それよりも園内をもうちょっと調べてみるか。見落としたものがあるかもしれない」
日没まで園内を捜索したが、手がかりらしいものをみつけることはできなかった。二人は意気消沈してパトカーに戻った。
パトカーを発進させると楠警部は、
「桐生、おまえは署に着いたら報告書を作成しろ」
「楠さんはなにか用事でもあるんですか?」
「おれは憂さ晴らしをしてくる」楠警部はそう言った後、ボウリングのエアー投球のジェスチャーをした。




