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男が110番通報をしてから四十分後、二人のスーツ姿の男性がD市動物園の正門を通って中に入っていった。一人は身長百八十センチ、中年男性にしてはスラリとした体格をしていて、無駄にイケメン顔をしている。
彼の名前は楠亮平。T警察署の捜査一課に所属する刑事で、肩書は警部。三度の飯よりボウリングが好きで、時間が空くと、すぐにボウリング場に足を運んでしまうので、警察署にいるよりもボウリング場にいる時間の方が長い。
彼の運転する警察車両には、マイボールやマイグローブなどのグッズがかなりのスペースをとって常備されているので、他の警察官が乗れなくなることも時々あるような始末。
この日も楠警部は事件現場に向かって歩きながら、ボウリングのエアー投球を繰り返している。
もう一人の男性の名前は桐生整。彼もT警察署の刑事で、年齢は二十三才。痩せていて、というかほとんど皮と骨で構成されていて、顔色は一か月以上、日光を浴びていないんじゃないかというくらい青白い。
実際に休日は家に引きこもってゲームをしたり、アイドルのライブ映像を観たり、メタバースの世界に時間を費やしたりしているので、あながち間違ってはいない。小学生みたいな童顔で、おどおどしているので、およそ警察官には見えない。だが、推理力は抜群で、今までにいくつもの事件を解決に導いている。
そんな二人の刑事が無人の受付を通り過ぎて、入り口ゲートの前に来ると、一人の警察官が近づいてきた。最寄りの交番から駆けつけた泉という巡査に違いない。
「お疲れ様です、楠警部。現場はこちらです」
泉巡査に案内されながら、深夜の動物園を進んでいく。パンダ舎、鳥類エリアを通り過ぎ、その先の開けた場所に来ると、どこからともなく、
「キィィ」という鳴き声がした。それを聞いた桐生が、
「ぎゃー」という叫び声を上げたものだから、楠警部はびっくりして、
「だあー」とプロレスラーの掛け声みたいな声を出してしまった。
「桐生、びっくりさせるなよ。ただの猿の鳴き声だろ」楠警部は呼吸を整えながら言う。
「すいません、静まり返った中で、急に聞こえたものですから」
モンキーエリアを抜けて、その先の狭い通路にやってきた。通路に入って二十歩ほどのところに、黒いコートに身を包んだ人物が倒れていた。横顔を見ると、どうやら三十代くらいの男のようだ。その傍らには、二十代前半の男女と、その脇に警察官が立っている。
「お疲れ様です、楠警部」見張っていた警察官は敬礼して一歩引いた。
楠警部は死体のそばに身を屈める。死体はうつ伏せの状態だった。コートの真ん中辺りが赤黒く染まっていた。床には血溜まりができている。どうやら背中をナイフのようなもので刺されたらしい。
ぱっと見た限りでは凶器は見当たらない。楠警部が、若い男女に視線を向けると、見張りの警察官がすぐに、
「この方たちが死体を発見したそうです」
楠警部は警察バッジを見せてから、
「ちょっとお話をよろしいですか」と丁寧な口調で言った。
二人のうち、どちらかというと男の方がおどおどした様子だ。
「お、おれたちはただ、この人が倒れてるのを見つけただけっすよ」
「それは何時ごろですか」
若い男は腕時計を見て、
「一時間くらい前だったから、ちょうど一時くらいかな」
「どうしてそんな時間にこんなところにいたんです?」楠警部は男女を交互に見る。
「それは」と女の方が話し出そうとするのを、男が遮った。
「おれたち、公園を歩いてたんです。そしたら、動物園の中から人の叫び声が聞こえたんです。それで、ちょっと様子を見てみようということになって、正門の横の壁を登って入ってきたんですよ」
「ほんとですか。ここからだと公園はだいぶ離れてるような気がしますが」楠警部は不審そうな表情で聞き返す。
「ほんとですよ、そうだよな、みいな」
「え?ほ、ほんとです」女は少し、どもりながら答えた。
「壁を登ってここまで来て、この死体を見つけたわけですか」
「そうです」男女が声を揃える。
「あなた方が来た時には、すでにこの状態で、息はしていなかったんですか?」
「はい」
「凶器のようなものは見ていない?」
「はい」男はなるべく口数を少なくしているようだ。
「園内で不審な人物を見かけませんでしたか?」
「誰も見てませ、いや見ました。モンキーエリアの猿山の前で、この死体と同じようなコートを着た人を見ました」
「コートを着た人を見た?その人はどこに行ったんですか?」
「こっちの方に駆けだしていったんです。それで、おれたち、その人の後をつけてここに来たんです」
「その猿山にいた人っていうのは、この死体とは別人なんですか?」
「たぶん別人です。猿山にいた人は、もう少し背が高くて痩せてました」
楠警部は死体を見下ろした。死体はどちらかというと太っている。それでは、その痩せた人物が犯人なのだろうか。このコート姿、どこかで見たことがあるような気がするが、どこでだったか思い出せない。楠警部が記憶をたどっていると男が、
「それとその猿山の前にいた人は話をしてました」
「話をしてた?すると、もう一人いたということですか?」
楠警部がたずねると、男は真面目な顔つきで、
「いや、猿山にいたのはその痩せた人だけでしたよ。その人は猿山のチンパンジーと話してたんです」
五秒ほど沈黙が続いた。その後、楠警部は、
「パードン?」と日本語のアクセント百パーセントで聞き返した。
若い男は楠警部がなんと言ったのか分からず、
「はい?」と聞き返す。
「し、失礼。つい英語が出てしまいました。最近、オンラインで英会話を習いはじめましてね。それはそうと、チンパンジーと話していたですって?」
「そうです」
「それはなにかの勘違いじゃないですか。独り言を言ってただけとか」
「いや、独り言じゃないです」きっぱりと否定する。
「それともスマホのハンズフリーで電話してたとか」
「電話でもないです。たしかにチンパンジーと話してました。そうだよな、みいな」
「うん、それは確かだと思う」
「はははは。動物が人間と話ができるわけがないじゃないですか。警察をからかっているんですか」
楠警部が笑ったものだから、男はちょっと苛立ったようだ。
「おれたち近くで聞いたから間違いないですよ。なんか取引してるみたいな内容でしたよ」
楠警部は疑わしげな目を二人に向ける。
「わかった、きみたちクスリやってるんだな。それで幻覚や幻聴を見たり聞いたりしてるんだ」
この発言には、女の方が怒ったらしく、
「そんなことしないです。なんなら検査してくださいよ」と楠警部を睨む。
「冗談ですよ。でも信じられないなあ。人間がチンパンジーと話してたなんて。具体的にどういうことを話してたんですか?」
「囁き声だったんで、断片的にしか聞き取れなかったんです。聞き取れたのは、二、三日どうとか言った後、そのコートの人がチンパンジーに何かを手渡したように見えました」
楠警部は困ってしまった。こういう奇妙な事件は桐生に意見を聞くのがいい。
「おい、桐生、おまえはどう思う?」とたずねた。しかし、楠警部の隣りに桐生の姿はなかった。
「あれ、どこ行ったんだ」
首を振って左右を見る。いない。後ろを振り返ってみると、桐生は通路の陰から半分だけ顔を出してこちらを見ていた。
それを見て楠警部は思い出した。桐生は警察官のくせに、死体とか血を見るのを極端に恐れることを。楠警部はため息をついて、
「桐生、こっちに来い」
桐生は楠警部の呼びかけに全く反応しない。しかたなく桐生のもとに歩いていって、嫌がる桐生を引っぱってきた。桐生は両手で顔を覆っている。その手を楠警部が無理やり下ろす。桐生は目の前で死体を見てしまった。
「ぎゃー」と叫んだきり、うずくまってしまった。
第一発見者の二人は、このやり取りを呆れながら見ている。
「お二人はもう帰ってもらってけっこうです。ご協力ありがとうございました。ほんとは建造物侵入罪で署に来てもらおうと思ったんですが、それどころではないんでね」
そうでしょうねという眼差しを楠警部たちに向けて、カップルは立ち去って行った。彼らと入れ替わるように、救急隊員が到着した。楠警部と二言三言話してから、死体をストレッチャーに乗せていった。さらに鑑識の連中がやってきた。彼らはすぐに現場を立ち入り禁止にして作業を始めた。
死体が運ばれてしばらく経ってから、桐生は立ち上がった。
「おまえ全然、死体に慣れてねえじゃねえか。おれがこの次の現場までに慣れとくように言っといたろ。おれが教えてやったゾンビ映画観なかったのか。あれには、わんさか死体が出てくるから、いい訓練になるぞ」楠警部の助言もどうかと思うが。
「観ましたよ。ぼくは映画なら観れるんです。だって作り物だって分かってるから。でも本物はだめなんです」
「しようがねえやつだな。とりあえず園内を調べるぞ。犯人はもう逃走してると思うが、なにか見つかるかもしれん」
楠警部の部下が駆けつけてきた。彼らは手分けして、深夜の動物園を捜索していった。ほとんどの動物は舎の中に入って眠っていたが、中には起きて動き回っているのもいて、楠警部たちが近づいてくると、檻の近くまで寄ってきたり、奇声を発したりする動物もいた。その度に桐生はびっくりして、
「ぎゃっ」と叫び声を上げる。そしてその度に楠警部は、
「うるせえ、静かにしろ」とたしなめるのだった。
二時間の捜索は徒労に終わった。犯人の遺留品は発見できず、侵入場所も逃走場所も特定できなかった。疲れた表情をしながら、入り口に向かって歩いていると、桐生が突然、
「あれなんだろう」と言って、懐中電灯をある一点に向けて駆け出していった。
そこはライオンやチーター、キリンなどがいるアフリカエリアで、この時間には、それらの動物は舎の中に入っていて姿が見えず、ひっそりとしている。その先には、死体が発見された通路がある。
アフリカエリアの柵の手前までやってきた桐生は、手袋をしてから、屈んで何かを拾った。それは縦横がスマホくらいの大きさで、表面は黒色、文字などは書かれていなかった。裏側にもなんの表示もない。横にはスイッチのような突起物があるだけだった。楠警部たちが彼のもとにやってきた。
「なにを拾った?」
「分かりません」桐生はそれを楠警部に手渡す。
楠警部はその物体をしげしげと眺める。
「なんだ、これは」彼は部下たちに見えるように前に差し出した。
部下たちも、
「なんでしょうね」と首を傾げる。
「とりあえず、横にある電源っぽいのを押してみるか」
ボタンを押すと、上部の一部分が一瞬、緑色に点滅した。しかし、変化はそれだけだった。
「なにも起きねえな」
「楠さん、科捜研の人って呼べますか?」桐生が聞く。
「呼べないことはないけど、どうせこれは客の子供が落としていった玩具だろ」
「じゃあ呼んでください」
楠警部はめんどくさそうにスマホを取り出して、通話を始めた。幸い、科捜研は他の事件の捜査でこの近くにいたらしく、すぐに来られるということだった。




