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「ねえ、やっぱりやめようよ」
「大丈夫だって。もし誰かにみつかったら、ダッシュで逃げればいいんだから」
「防犯カメラとかあるでしょ。わたしたちの姿が映っちゃったら逮捕されたりしない?」
「ほんと、みいなは心配性だな。カメラに映ってもいいように、これ着てるんだろ」若い男は自分の着ている季節外れのコートをつまんでみせる。
「うーん、でも」若い女も視線を下げて、自分の着ているコートを見つめる。男は、躊躇している女の手を強引に引いていく。二人の目の前には、『D市動物園』と書かれた看板が深夜の月明かりを浴びて、おぼろげに見えている。男は門の隙間から中の様子を覗く。人の気配はなく、ひっそりと静まり返っている。昼間の賑やかさとは、あまりの落差だ。
後ろを振り返って誰もいないのを確認すると、男は手に持っていた小型の脚立を広げて、それを正門脇の石塀の前に置いた。脚立に乗ると、軽やかに石塀を乗り越えた。向こう側から、
「みいな、早く上って」と呼びかける。
女は後ろを振り返って誰もいないのを確認してから、恐る恐る脚立に足を載せた。背伸びをしながら、石塀の上端にしがみつく。勢いをつけて脚立を蹴って、なんとか石塀に上ることができた。
深夜の動物園は想像以上に静かだった。まるで何年も前に閉園しているみたいだった。聞こえてくるのは、遠くの方で車が鳴らすクラクションか、微かに聞こえる動物の鳴き声だけだった。
二人の若者は無人の受付を通り過ぎる。入口ゲートをくぐって、その先の広場にある案内板の前で立ち止まる。そこから左右に道順が伸びている。二人は右に進んだ。女の方が時折、なにか喋りだそうとするのを、男が人差し指を口に当てて制した。
最初に向かったパンダの展示室の中にパンダはいなかった。ガラスに顔を近づけてみるが、やはり見当たらない。女の目的の一つがパンダを見ることだっただけに、がっかりした様子で展示室を眺める。
二人が通路を先に進もうとしたとき、どこからともなく『キィ』という動物の鳴き声がしたので、二人はぎくっとして立ち止まった。鳴き声は一回だけだったが、二人は体を寄せ合いながら歩いていった。
パンダエリアの先には鳥類エリアがあった。さっきの甲高い鳴き声はおそらく、ここにいる鳥が鳴いたのだろう。常夜灯がまばらにしか設置されていないので、舎の中をいくつか覗いてみるが、どこに生き物がいるのか分からない。カサカサという音が聞こえるだけだ。
「ねえ、そろそろ出ようよ。誰かいるかもしれないよ」
「せっかく夜の動物園に入ったんだ。もうちょっと楽しもう。おれ、ライオンを見たいんだよ」男は、乗り気でない女の腕を引っ張っていく。
二人の不法侵入者が鳥類エリアを抜けて、狭い通路に入ろうとした時、女が急に足を止めた。そこで聞き耳を立てている。
「みいな、怖がることないって。この先のモンキーエリアにいる猿の鳴き声が聞こえたんだろ」
二人のいる通路は狭く、左に緩やかに曲がっているため、先の状況が見えない。
女は声を押し殺しながら、
「違う、猿の鳴き声じゃない。なんか人が話してるみたい」
「人が話してる?」
男も足を止めて耳を澄ました。女の言う通り、微かではあるが、この先で人が会話をしているようだった。
「戻ろうよ」女は男の腕を引っぱる。
「ちょっと確かめてくる。もしかしたら飼育員かもしれない」
男は女の腕を振り払って通路を進んでいった。しかたなく女も後に続く。
足音を立てないように通路を歩いていくと、屋外の開けた場所に出た。右手には大きな類人猿舎が見える。その前に人の姿があった。外灯が離れた位置にあるため、その姿は霞んでしか見えないが、季節外れのコートを着て、一人だけであるのは確認できる。
二人は通路の陰から事態を見守る。すると、また会話が聞こえてきた。二人のいる場所からでは、所々聞き取れないが、会話であるのは間違いない。だが、類人猿舎の前にいるのは一人だけだ。
「あの人、誰と話してるんだろう」男は通路から身を乗り出すようにしている。「スマホのハンズフリーで電話してるんじゃない?」女が背後から囁き声で言う。
「もうちょっと近づいてみるか」
男は身を屈めながら忍び足で、類人猿舎の前にある木の陰に行って身を潜めた。そこからだと、さっきよりは会話の内容が聞き取れる。
『だからこれを…ほしいんだ。二三日したら…来るよ』この声はたぶん、類人猿舎の前に立っている人の声だ。
『うーん、そんなにいうなら…。…してくれるっていうのは本当…』このように返答した声は低音で唸るような声だった。
それを聞いて男はびっくりした。その人物はスマホで話しているのではなく、目の前にいるチンパンジーと話しているように思えたからだ。
『うそはつかない。約束する』
『わかった。じゃあそれを…』
類人猿舎の前にいる人物は右手を上着のポケットに滑りこませると、そこから何かを取り出してチンパンジーに手渡した。
その直後、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。その音を聞くと、コートの人物は辺りを見回してから、先にある通路の方へ走っていった。
若いカップルは数秒間、その場に立ちすくんだ。やがて男が類人猿舎に近づいていく。コートの人物が立っていた場所まで来て、舎の中を見渡す。すでにチンパンジーの姿はなかった。女が後ろから歩いてきて、
「あの人、チンパンジーと話してたよね」
「うん、そのチンパンジー見当たらないな」
「あの人、追いかけてみようよ」女はさっきまでの臆病さが嘘みたいに乗り気になっている。
女は小走りで先の通路を進んでいった。男の方は慎重に歩いていく。先ほど見た動物と人の会話が頭から離れなかった。あれは本当なのか。それともなにかの見間違いなのか。男が狭い通路に差し掛かろうとした時、奥から、
「きゃー」という叫び声がした。あの声はみいなだ。男は駆け出す。
通路に入って二十歩ほど進んだところで、みいなが尻餅をついていた。男は一目散に駆け寄って抱きかかえる。みいなの右手の人差し指が何かを指している。その方向に目をやると、驚いたことに人が倒れていた。その周囲の床には血だまりのようなものができている。
倒れている人物は、黒いコートを身にまとっているが、さきほど類人猿舎で見た人物ではないような印象を受けた。
倒れている人物の口元に手のひらを近づける。息はしていない。さらに手首の脈をとる。脈も確認できなかった。男は急いでスマホを取り出して110番通報をした。




